まんぷく

安藤仁子(あんどうまさこ)の生涯について!家系図が複雑!?

NHK連続テレビ小説第99作目まんぷくの実在モデルになったのはカップヌードルやチキンラーメンでお馴染み日清食品の創業者安藤百福さんの奥様「安藤仁子さん」です。

 

この安藤仁子さんというのはいわゆる「縁の下の力持ち」という言葉が似合う方です。それはなぜかというと仕事一筋で家のことや子供のことには全く無関心。結婚して早々「子どもが出来ても私には育児する暇がないから、君に任せる」なんて言う亭主関白な夫を支え続けたのです。

 

今回はそんな安藤仁子さんについて詳しく調べましたのでご紹介します。

今すぐ家系図を見たい!という方は、こちらをご覧ください。

安藤仁子(あんどうまさこ)の生涯について!

安藤サクラさん演じる今井福子の実在モデルは安藤仁子さんです。

安藤仁子さんとは日清食品の創業者安藤百福さんの妻です。破天荒で一度仕事スイッチが入ると家庭を顧みない亭主関白な夫を一生支え続けた素晴らしい女性です。

そんな安藤仁子さんについて紹介します。

大正6年(1917年)安藤仁子誕生

仁子さんは大正6年(1917年)8月16日に福島県二本松市に生まれました。二本松神社の神職の一族で当地の名族の出身です。

二本松神社はかつて二本松藩が総鎮守として崇めた神社でもあり。江戸時代には藩主から車輌や扶持米(ふちまい)を与えられ、厚遇されていました。

仁子さんのお父さん安藤重信の職業は土木技師。高学歴のエリートで岡山県の高梁ダムなどの設計にも関わっていたそうです。

しかしそのお父さんとは早くに死に別れ、仁子さんはお母さんと一緒に大阪に移り住みました。

大阪に行ってからも高等女学校を卒業するなどお嬢様は変わりませんでした。

大阪倶楽部の受付嬢として働き始める

高等女学校を卒業してからは「大阪倶楽部の受付嬢」として働き始めました。(※大阪倶楽部とは大阪の実業家たちが会員になり、互いの交流を深めるための名門の社交クラブです。)

大阪倶楽部では接客教育も徹底されており、その物腰はじつに優雅で気品あふれる感じでした。

安藤百福さんに出会ったのはこの大阪倶楽部。一目惚れされ、熱烈なアタックを受けます。始め、仁子さんはプロポーズを断ります。

しかし安藤百福さんはそんなことで諦めるような男ではありません。仁子さんが心変わりをすることを待ちながら、毎日大阪倶楽部に通いつめました。

これは当時の男性には珍しい行動でした。結婚に対して本人が動くことはなく、まずは人を介して相手の意思を確かめる。と段階を踏むのが一般的でした。その方がプライドが傷つかずに済んだからです(笑)

結果として安藤百福さんの押しの一手が成功。何度もフラれた後は、今度は知人である元陸軍中将井上安正さんを介して求婚します。

この行動からきちんと正式な手順を踏んだということで母、須磨の心象を良くしました。また誰もが将来に不安を覚え、自信喪失気味の世の中で常に前向きに強く生きる安藤百福さんを見て仁子さんは「こんな人と一緒に暮らせば、明るい家庭が築けるかもしれない」という思いからプロポーズを承諾。

昭和20年(1945年)に2人は結婚します。

2人の新婚生活は大阪府吹田市千里山でスタートしました。ここは関西圏でも有数の高級住宅地で、ここに住むと女性は「千里山夫人」と命名されるほどでした。

しかし経済的に満たされていても、百福さんは仕事に明け暮れ家を留守にすることが多く、仁子さんは寂しさを感じていました。結婚早々に「子どもが出来ても、私には教育する暇がないから、君にまかせる。」と宣言されたからです。

そんな百福さんに仁子さんが結婚の条件にあげたのは「妻子の生活を守る」ことでした。その他のことは目をつむって我慢すると決めていたのです。

新婚生活がスタートして間もなく、空襲が本格的になり、仁子さん一家は兵庫県の上郡町の旧家を借りて疎開することになりました。その判断は正解で以前済んでいた千里山も6月15日に爆弾が落ちて、大半が焼け野原になってしまいました。

疎開先の上郡町では百福さんは森林資源に目をつけて燃料になる「炭焼き」の事業と素人仕事でも簡単に組み立ての家が出来るプレハブ住宅の販売を行いました。

こんなのどかな田舎に来ても事業の可能性を追求して忙しく動き回る百福さんの姿を見て仁子さんは呆れたが、たくましく頼りになる夫だと惚れ直しもしました(笑)

その時に仁子さんは”この人は日本がどんな状況になっても変わらない。家族を養うための仕事を求めて精力的に動き回るだろう。そして、そんな夫が疲れを癒やす居心地のいい家を作るのが自分の仕事。夫の行動から仁子さんも自分のやるべきことを理解します。この非常事態でもそんな心境に慣れるのも百福さんという伴侶がいればこそ。結婚したことは間違いなかったと仁子さんも確信したことでしょう。”

昭和21年(1946年)2人は終戦後再び大阪に戻り、梅田の闇市でラーメン屋台に並ぶ行列を見ます。

大阪府泉大津市に土地を買い、そこに急いで新居を建てました。お手伝いさんの女性と3人で暮らし始めました。(朝ドラではこのお手伝いさんが姉の娘タカ:岸井ゆきの)

そこで2人はラーメン屋台に並ぶ行列を見て(当時の支那そば・南京そば)「人間にとって食べることがいちばん大切なんだ」ということを再認識します。

安藤百福さんは大阪府泉大津市で100人以上の若者を集め、製塩業を始めます。しかしここでできた塩は売るのではなく、近所に配るだけ。戦争が終わってどうしたらいいのかわからない若者に希望を持ってもらいたい!と父親代わりになっていたのです。

塩田で働く若者たちが寄宿していた安藤家では仁子さんの家事労働の負担が増えていました。同居する母’須磨’が手伝ってくれるとはいえ、食欲旺盛なたくさんの若者たち。四六時中台所に立って忙しく働いていましたが仁子さんは嫌事を一言も言わず、むしろそれを楽しんでいました。他にも手作りのオリジナルウイスキーを作ったりしていました。これはもともとお世話好きの仁子さんだからこそ出来た仕事なのかもしれません♪

昭和22年(1947年)待ち望んでいた子ども「宏基」が生まれます。自宅から散歩がてらの距離に美しい砂浜があったのでよく連れて行っていました。また仁子さんは当時女性では珍しく、泳ぎが得意でした。

昭和23年(1948年):大阪府泉大津市で「中交総社(のちの日清食品)」を設立し翌年、「中交総社」から社名を「サンシー殖産」に変更します。

幸せはこのまま続くと思ったのですが・・・

昭和24年(1949年):GHQに疑われ、拘置所に入れられます。

安藤百福さんはいきなり「脱税」の容疑でGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)に逮捕され裁判では「重労働4年」という判決が下されてしまいました。その理由は塩田の若者たちに渡していたお小遣いが給与とみなされ、税金を払ってないものとされたからです。

しかし、安藤百福さんにとっては全くの濡れ衣でこれは一種の見せしめで、税金を払ってない人たちに対して「これからは厳しく取り締まるぞ」という脅しだったのです。そこで安藤百福さんは「悪いことなどしていないのに納得がいかない」と弁護士を立てて税務当局を訴え、徹底的に戦うことにしました。

アメリカ軍が管理する「巣鴨プリズン(東京拘置所)」での生活は塀の外にいるよりいい生活で重労働など一切なく、食事はアメリカ兵と平等、タバコも配給されるのでそのタバコを賭けて麻雀や花札で博打が行われているくらいでした。

そうするうちに税務当局の役人が「訴えを取り下げてもらえないか。そうしたらすぐに自由の身にしてもいい」と言われます。このまま裁判を続けていれば安藤百福さんの無実は明らかになり、自分たちが不利になるとわかっていたからです。そのため安藤百福さんは首を縦には振りませんでした。

しかし、2年ほど経った頃それまで毎月面会に来てくれていた仁子さんが初めて子どもたちを面会に連れてきました。息子の宏基くんは3歳、娘の明美は1歳半になっていました。

そこで仁子さんに「訴えを取り下げてください。」と仁子さんに泣いて頼まれても「裁判が終わるまでは辛抱してくれ」と言い続けてきた百福さんもさすがにこれには堪え、訴えを取り下げ出所することにしました。

実はこれは仁子さんの作戦勝ちでした。たった45分の面会のために片道14時間以上も列車に乗り、生まれたばかりの赤ちゃんと息子と手をつないで徒歩で巣鴨プリズンまで向かう。占領軍や税務当局の理不尽なやり方に怒り心頭に発して熱中している夫に家庭のことを思い出させて冷静さを促すのが目的でした♪

まんちゃん
まんちゃん
私だったらこの時点で離婚だ!って言いたくなるよ。
ぷくちゃん
ぷくちゃん
それでも2年もかけて説得し続けた仁子さんはすごいし、子どもの力って絶大やね(笑)

昭和26年1951年;安藤百福さんが信用組合の理事長に就任します。

当時事業で成功していた安藤百福さんを理事長にして世間の信用を得たいという信用組合に無理を言われ、渋々理事長に就任します。

昭和32年1957年:信用組合が倒産し、財産を全て没収されました。

安藤百福さんは責任を取らされて、財産を全て没収されてしまいました。

幸い、自宅は借家だったので済むところだけは失わずに済みました。

昭和32年1957年:チキンラーメンの開発に取り掛かります。

安藤百福さんは全て財産を取られてもめげず、「そうだ、ここで負けてたまるか。失敗した分、経験が血や肉となって身についたと思えばいいんだ!私には元気な身体があるし、大切な家族もいる。今までだって何度も挫折や失敗があった。また一からやり直せばいいんだ!」新しい事業のためにと家の敷地内に研究所を作ります。

失業して無一文になった夫が新しい職を探すわけでもなく、訳の分からない研究に没頭。それを文句一つ言わないで見守る仁子さんは並大抵の神経ではないことは間違いないでしょう。

まんちゃん
まんちゃん
普通だったらなんで働かないの!?とか子どももいるのよ!って言いたくなるところだよね!
ぷくちゃん
ぷくちゃん
でもそこで何も言わない仁子さんはすごすぎる・・・

昭和33年1958年:チキンラーメン完成。

ラーメン作りの最後の課題はラーメンの乾燥方法でした。生麺ではすぐにカビが生えたり、腐ってしまう。それをどうしたらいいか悩んでいた時に仁子さんは思いがけず、ヒントをあげることになりました。それは夕飯のおかずの「天ぷら」です。

その様子を見ていた夫は「そうかこれだ!この方法を使えば即席ラーメンが出来るぞ」と大喜び。これが今や世界で年間1億食以上食べられている即席ラーメンの原理を発見した瞬間でした。

即席ラーメンが出来上がり初めて食べた時仁子さんは嬉しすぎて、涙を流しながらたべました。

それからは家族総出で即席ラーメン作りスタート!遊びたい盛りの子どもたちは文句も言わず、手伝いました。百福さんはモダンなところがあり、セリフの端々に英語を使うのが好きでした。家族に仕事を頼む時も鶏のスープとは言わず「チキンスープの元は出来たか」や「チキン運んでくれ」など「チキンチキン」いうので家族も「チキン」というようになり即席ラーメンの名前が「チキンラーメン」になりました♪

8月25日にチキンラーメンの販売を開始。お湯を注ぐだけで食べられるなんて「魔法のラーメン」と言われおいしさと手軽さから大ヒット商品になり、またたく間に日本中で食べられるようになりました。

この噂はアメリカにまで届き、サンプルを送ったところ、先方からすぐに500ケース送ってほしいという連絡が入りました。当時は工場もなく、小さな研究所では作業が追いつかなくなり1958年の夏頃になると予算100万円(現在の約2000万円)をかけて工場を建設し始めます。

この時、普通の女性であれば売れる保証もないのにいきなり2000万円も借金して工場を作るなんて反対するところですが仁子さんは「どうせやるなら日本一のラーメン屋になってください」と夫にはっぱをかけました。

まんちゃん
まんちゃん
「どうせやるなら日本一のラーメン屋になってください」っていうなんてかっこいいね!
ぷくちゃん
ぷくちゃん
それだけ旦那さんを信じてたってことかもしれないね♪

12月に「サンシー殖産」から社名を今現在の「日清食品」に変更します。

日清食品の由来は「日々清らかに豊かな味をつくる」という意味です。チキンラーメンには追い風が吹き続けます。食べた人々の間で「精力がつく」「肌艶が良くなった」など噂が広がったのです。

当時、日本国民は健康への関心が薄く、栄養バランスが相対的に悪かったのです。そこで厚生省は分析により栄養価の高さが証明されたチキンラーメンを「妊婦の健康食品」として推奨するようになり、知名度はさらに高まりました。

日清食品の売上は1964年になると43億3千万円に達しました。世間からは「大企業」「一流企業」と認められるようになりました。

百福さんは今まで以上に多忙になり、家族と過ごす時間が短くなりました。「子どもが出来ても私には育児する暇がないから、君に任せる」と結婚した当時に夫が言った関白宣言。そのとうりの状況になってきました。息子や娘たちも中高生。普通の家族であれば思春期の問題もいろいろ出てきます。「どうせ夫に相談しても聞いてくれはしないだろうから・・・」と仁子さんは一人で悩むことが多くありました。しかし、これは安藤家だけではなく、この時代仕事命の父親が多く子どもには無関心、子育てと家事は母親の仕事という風潮があったため、当たり前でした。

まんちゃん
まんちゃん
今の世の中とは大違い!
ぷくちゃん
ぷくちゃん
今の時代でホントよかったー(笑)

昭和41年(1966年):安藤百福さんが海外進出をするために、アメリカとヨーロッパを視察に行きます。

この時期全日空機が羽田沖で墜落したり、イギリスの航空機が富士山上空で空中分解するなど衝撃的な飛行機事故が続いていました。

”飛行機=危険な乗り物”と思われていた時期に海外出張に行く夫を見て仁子さんは「こんな時期に飛行機に乗らなくても・・・」と言いましたが百福さんは「死ぬ時は家の中の座敷に座っていても死ぬ。それにこれ以上事故が起きる確率なんて天文学的にありえない」と言い返されてしまいました。

昭和44年(1969年):視察でヒントを得た安藤百福さんは海外進出するためにカップヌードルの開発に取り掛かります。

昭和46年(1971年):カップヌードルが発売されました。

夫は「カップヌードルは世界を変える!」と言ってお客様の生の声を直接聞くために11月に東京銀座の歩行者天国で「カップヌードル試食販売会」を行いました。

そこでは大盛況!!今まで全く売れなかったカップヌードルが1日で2万食を売り上げる日もあり、ニュースになるほど話題になりました。

この頃仁子さんは「そろそろ引退して、ゆっくりなさればいいのに」とポツリと漏らしていました。きっと老後くらい2人でゆっくり過ごしたいという思いがあったのでしょう。しかしもちろん百福さんは「60歳、70歳になっても新たな挑戦はある」と聞く耳を持ちませんでした。

まんちゃん
まんちゃん
だれでも一緒にゆっくり過ごしたいって思うよね。
ぷくちゃん
ぷくちゃん
でもそこでいうことを聞いてくれないのが百福さんらしいよね(笑)

昭和48年(1973年):アメリカでカップヌードルの販売を開始します。

昭和56年(1981年):安藤百福さんは社長職を引退します。

その前年の売上が1千億円を突破して業界で盤石の地位を築いていました。そこで百福さんは宏基のほかに台湾で過ごしていた頃の奥さんとの子どもである宏寿を2代目の社長にします。(宏寿はすでに戦前から日本に引き取られており、仁子さんが我が子のように安藤家で一緒に暮らしていました)

しかし楽隠居するわけでもない百福さんは自分が元気なうちに後進を育てておかなければという思いから毎日出社し続けます。引退しても会社の経営に口を出す父にイラ立ち宏寿は2年後に社長を退任してしまいます。そして百福さんがまた社長に復帰しました。

1985年75歳:再び社長退任。会長職に退きます。

次は仁子さんの実子である次男「宏基」が3代目社長に就任します。だがこの2人は似ているところがあり、強い意志同士がぶつかって争いが絶えませんでした。時には自宅に呼びだされ説教されることも多々。しかし、宏基も黙っておらず、反論。壮絶な親子喧嘩は続きました。

そのとばっちりを受けるのはもちろん仁子さん。

長引く親子喧嘩の最中仁子さんはずっと2人のそばに居ます。喧嘩は不介入。黙って聞いているだけですがあまりにも長くなりすぎたり、ヒートアップしすぎると、さすがの仁子さんの堪忍袋の緒が切れるようで「もういい加減にしなさい!」と一人でさっさと寝てしいます。

ヒートアップしすぎた2人は冷水を浴びせられてはっと冷静に戻り、親子喧嘩も収束します。

もしかしたらそのタイミングであれば収束することをわかっての行動だったのかもしれませんね♪

平成19年(2007年):安藤百福さんが急性心筋梗塞で亡くなります。

1月5日の朝仁子さんは夫の異変に気づきました。38度の高熱を発して苦しんでいました。数日前に「風邪気味でのどの調子が悪い」と自覚症状を訴えていました。しかし、大事に至ることはないと思っていました。

医師が往診に来て、点滴を開始。しかし夫は「しんどい、点滴を止めてくれ。睡眠薬が飲みたい。」そう言って苦しみだしました。それが最期の言葉でした。実はそのとき心筋梗塞を起こしていたのでした。

平成22年2010年:仁子さんも92歳で亡くなります。

夫が亡くなってから約3年。仁子さんも静かに息を引き取りました。

目立った行動をすること無く、家庭で生き続けた彼女。世界の食文化を変貌させた夫を支え続けた妻が、人知れず静かに世を去っていきました。これもまた仁子さんらいいのかもしれません。

家系図もチェック

それでは早速安藤家の家系図を紹介します。

この家系図を見たらわかるように仁子さんの夫、百福さんには実は台湾に奥さんがいました。

 

早くに両親を亡くし、祖父母に育てられた百福さんは家族というものが恋しく、台湾で早くに結婚したのです。しかし、百福さんはせっかく築いた家庭を捨て、単身で日本へ移住してしまいました。

そんな百福さんが仁子さんに一目惚れをし、猛アプローチを受けた結果、結婚を決めました。その時に問題になったのが台湾に残してきた妻子。離れて暮らしていても法律上の夫婦関係は続いていたのです。

台湾では昭和5年(1930年)に一夫多妻制が禁止されました。しかし、それ以前は公然と認められていました。周囲もとやかくいうこと無く、ごく自然なことと受け止められるほど。また当時の日本においても正妻の他に愛人を持つということは、富裕層ならごく当然のことでした。

まんちゃん
まんちゃん
せっかく結婚したのに自分と子供だけ置いていかれるなんて台湾の奥さんは心細かっただろうね。
ぷくちゃん
ぷくちゃん
でもそれを告白された時は仁子さんもびっくりしたのは間違いないね(笑)

台湾では一夫多妻制は廃止したものの戸籍上の「妾」は認められていました。そのため百福さんは正妻はまだ不在ということで日本での仁子さんとの結婚が認められ、「安藤百福」になりました。

台湾で生まれた百福さんの長男「宏寿さん」はすでに戦前から日本に引き取り、安藤家で一緒に暮らしていました。仁子さんも我が子として育てたのです。

まんちゃん
まんちゃん
自分と全く血がつながってない子を育てるなんて普通に考えたら大変だよね。
ぷくちゃん
ぷくちゃん
でもそこできちんと育ててそうなのが仁子さんだね♪

今の世であれば少し複雑に感じますが当時は兵役を免れていた台湾人や朝鮮人と結婚する日本人女性が多くいました。それだけ日本には若い男性が居なかったということですね。

朝ドラまんぷくでは描きにくいところかもしれないのでこの話はないかもしれませんが書籍で調べてみるととても面白かったです。
まんぷくではどんな風に描かれるのかそれも楽しみにしておきましょう♪