エール

古関裕而の生涯や家系図をチェック!子供は3人おり妻は先に死ぬ!?

2020年度前期のNHKの連続テレビ小説「エール」

エールは、「栄冠は君に輝く」「六甲おろし」などで知られる作曲家の古関裕而さん夫妻をモデルにしています!人々の心に寄り添う曲の数々を生み出した昭和の天才作曲家とその妻を描く物語です。

まんちゃん
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すでに楽しみなんだけど☆
ぷくちゃん
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安藤サクラさん、広瀬すずさん、戸田恵梨香さん、窪田正孝さんって「若手の登竜門」じゃなくなったね(笑)

古関裕而さんは、1972年から1984年まで、フジテレビ系で放送されていた『オールスター家族対抗歌合戦』の審査員としてテレビ出演していました。司会は萩本欽一さん。
ある程度の年齢の人なら、偉ぶらない、いつもニコニコと優しい笑顔の古関さんを覚えている人も多いと思います。(知らない人は、お父さんやお母さんに聞いてみてくださいね♪)

エールでも、主人公裕一のちょっと情けないエピソードーー1964年の東京オリンピック開催当日、作曲した『オリンピック・マーチ』が演奏されるという緊張に耐え切れずトイレにこもってしまったり、成長した幼なじみにそれと気づかずに告白してふられてしまったりーーがちりばめられていて、親しみやすい人柄にホッとしますね。

今回は、窪田正孝さんが演じる古山裕一の実在モデル、福島市出身の作曲家・古関裕而さんの生涯や家系図を紹介します♪

実在モデル・古関裕而さんの生涯

名前:古関裕而(こせきゆうじ)
本名:古關勇治(こせきゆうじ)
生年月日:1909年8月11日
出身:福島県福島市
職業:作曲家
ジャンル:応援歌・軍歌・歌謡曲
家族:古関金子(妻)、古関正裕(長男)

古関裕而さんの幼少期

1909(明治42)年8月11日、福島県福島市大町の呉服店「喜多三」に生まれた古関裕而さん!両親は、父・三郎次さん、母・ヒサさんです!音楽好きの父親が、蓄音機でレコードをいつもかけていたので、蓄音機が奏でるレコードの音色を聴いて育ちました。そんな古関裕而さんは、独学で作曲の道を志していくことに。

まんちゃん
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母・ヒサさんの実家は、福島県有数の資産家・川俣の武藤家なんだって!

楽しそうに聴いている息子の姿を見た母親が、小さなピアノを購入すると古関裕而さんは、喜んで夢中でピアノに向かいます。弾いているうちに音符の意味がわかるようになり、小学校を卒業する頃には、楽譜が読めるようになっていました。

「エール」で、裕一と一緒に福島三羽ガラスとして描かれる、幼なじみの佐藤久志と村野鉄男。

鉄男の実在モデル、野村俊夫さんは実際に古関裕而さんの幼なじみで、実家の魚屋さんは古関さんの実家のお向かいにありました。ただし、年齢は古関さんより5歳年上です。

久志の実在モデルの伊藤久男さんは福島県出身ですが、本宮町(現:本宮市)の出身。古関さんと野村さんは福島市出身なので、幼なじみ、ということではないようです。
ただし、音の実在モデルである金子さんと同じ時期に帝国音楽学校に通っていたため、古関家にはよく遊びに来ていたとか。年齢は、裕而さんより1歳下です。

古関裕而さんの青年期

1916年(大正5年)、7歳のときに福島県師範学校附属小学校へ入学。
10歳の頃には楽譜が読めるようになり、市販の妹尾楽譜などを買い求めるようになります。作曲に夢中になった古関裕而さんのもとには、クラスメイトが詩を持って作曲を依頼してくるようになりました。


1922年(大正11年)、音楽家の多い旧制福島商業学校(現福島商業高等学校)に入学します。家業を継ぐために商業高校に通いますが、常にハーモニカを携帯し、学業より作曲に夢中でした。この頃も、妹尾楽譜や山田耕筰著の「作曲法」等を買い集め、独学で作曲法の勉強を続けています。

ぷくちゃん
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実家の呉服店「喜多三」が倒産!

学校を卒業する頃、福島ハーモニカ・ソサエティーに入団(当時、日本でも有数のハーモニカバンドでした)します!古関裕而さんは作曲・編曲・指揮を担当して、地元の音楽仲間が主宰していた「火の鳥の会」が近代音楽家のレコードコンサートを開いていました。ここで初めて近代フランス、ロシアの音楽に出会い衝撃を受けます。

1927年(昭和2年)18歳の頃に、ペンネームを「古関裕而」にします。ラジオが大好きだった古関裕而さんは、福島商業学校時代に楽治雄(らじお)というペンネームも使用していました。

卒業後は、川俣銀行(現東邦銀行川俣支店)に就職。この頃、学生時代から憧れていた山田耕筰さんの事務所へ楽譜を郵送し、何度か手紙のやり取りをします。

1929年(昭和4年)、古関裕而さんが作曲した管弦楽のための舞踊組曲『竹取物語』が、ロンドンのチェスター楽譜出版社募集の作曲コンクールで2位に入賞しました。

まんちゃん
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日本人初の受賞だよ!

コロムビア専属に・・・

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豊橋市がこんな#プロモーション事業 を行っているそうです👇 ——————————————————– 豊橋市は福島市と連携してNHK朝の連続テレビ小説(朝ドラ)の誘致を進めています。 東京オリンピック・パラリンピックが開催される2020年4月からの朝ドラで、福島市出身の作曲家・古関裕而さんと豊橋市出身の妻・金子さんを主人公に夫妻の人生を描く物語の放映を目指します。 ネットからも署名ができます。ご協力をお願いいたします! #古関裕而 #古関金子 #NHK朝ドラ #誘致 #豊橋市 #福島市 #クラストコ #古関裕而さんの代表曲 ・#1964年 #東京オリンピック #行進曲「#オリンピック・マーチ 」 ・全国高等学校野球選手権大会歌「#栄冠は君に輝く 」 ・阪神タイガース応援歌「#阪神タイガースの歌 (#六甲おろし )」 ・読売ジャイアンツ球団歌「#巨人軍の歌 」 ・早稲田大学応援歌「#紺碧の空 」 ・慶應義塾大学応援歌「#我ぞ覇者 」 ・映画モスラ劇中歌「#モスラの歌 」など もし誘致できたら豊橋市でも撮影するのかな?なんて、ミーハーなこと考えてしまいました😁

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1930年(昭和5年)6月、21歳の古関裕而さんは内山金子さんと結婚。9月には、コロムビアの顧問山田耕筰さんの推薦でコロムビア専属の作曲家に迎え入れられ、夫婦で上京します。東京では菅原明朗さんに師事しました。
1931(昭和6)年には、早稲田大学応援歌『紺碧の空』を作曲しました。
同じ年、はじめてのレコード『福島行進曲』を出しています。

しかし実家が破綻してからは一族を養うため、クラシックの作曲から離れることに・・・。東京に移ってからのオーケストラ作品に、関東大震災を描いた交響詩『大地の反逆』があります。また、無調的な歌曲『海を呼ぶ』なども作曲しました。

ぷくちゃん
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古関裕而さんが、養っていたんだね!

1935年(昭和10年)、古関裕而さん26歳の時に『船頭可愛や』(詩:高橋掬太郎・唄:音丸)ヒット!この頃、声楽家志望だった妻・金子さんは帝国音楽学校へすすんでいました。

古関裕而さんの戦中から戦後

1936年(昭和11年)、『大阪(阪神)タイガースの歌/通称・六甲おろし』を作曲!※現在のプロ野球12球団のなかで最も古い球団歌です。

そして1937年(昭和12年)に発表された古関裕而さん作曲の『露営の歌』は、60万枚を記録しました。1938年(昭和13年)、中支派遣軍報道部の依頼により、従軍音楽部隊として上海・南京を訪れます。

1940年(昭和15年)には『暁に祈る』を発表!古関裕而さんが作曲した軍歌で、最もヒットした曲です。翌年は『海の進軍』が発表されました。

まんちゃん
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作曲時は、古関裕而さん自身が悲惨な体験や目撃したことを結びつけたって!

1942年(昭和17年)、南方慰問団派遣員として、シンガポール・ビルマ(現在のミャンマー)で慰問に従事します。1943年(昭和18年)の『若鷲の歌』は映画でも歌われ大ヒットしました。1944年(昭和19年)に『ラバウル海軍航空隊』を発表し、さらにビルマへ赴き『ビルマ派遣軍の歌』を作曲しました。

作曲した軍歌は、軍の委嘱による師団歌や連隊歌ではなく、軍国歌謡・戦時歌謡・銃後歌謡でしたが、その曲数は100近くにのぼった(戦後GHQによって廃棄させられた楽譜もあるため、正確な数は不明)そうです!

1945(昭和20)年8月15日、戦争が終わりました。
戦後は、暗く不安な日本を音楽で明るくするための活動に力を注ぎます!

  • 長崎だけにとどまらず日本全体に向けた壮大な鎮魂歌『長崎の鐘』
  • 戦災孤児の救済がテーマのラジオドラマ『鐘の鳴る丘』の主題歌『とんがり帽子』
  • 1964年、東京オリンピックの開会式に鳴り響いた『オリンピック・マーチ』
  • 現在も毎年夏の甲子園に流れている高校野球大会歌『栄冠は君に輝く』

他にも『フランチェスカの鐘』『君の名は』『高原列車は行く』など、次から次へと古関裕而さんの明るい曲・元気な曲・勇壮な曲が発表されました!

オリンピック・マーチは、アジアで初めて開かれるオリンピックに世界の多くの若人が集まる瞬間を、2人でイメージして作ったと言われています。

その後、劇作家の菊田一夫さんとコンビを組んで、数々のラジオドラマ・テレビドラマ・映画・演劇・ミュージカルのヒット作品を世に送り出します。1961年に菊田さんと手がけた、森光子さん主演の「放浪記」は長期公演舞台となりました。菊田さんと共同したミュージカル『敦煌』から交響組曲『敦煌』を編んでいます。

古関裕而さんの晩年

  • 1973年(昭和48年)長年コンビを組んだ菊田一夫さんが逝去。
  • 1979年(昭和54年)勲三等瑞宝章受賞。レコード大賞特別賞受賞。
  • 1980年(昭和55年)妻・金子さん死去。
  • 1986年(昭和61年)作曲生活から引退。
  • 1987年(昭和63年)「日曜名作座」を3人で30年間続けた業績に対し、森繁久彌、加藤道子とともに放送文化基金個人部門賞受賞。

フジテレビ系の音楽番組『オールスター家族対抗歌合戦』が開始された1972年10月から、初代司会者の萩本欽一さんが降板する1984年6月24日まで、審査員として務めていました。

まんちゃん
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1977年に「栄冠は君に輝く」制定30周年を記念して夏の甲子園の開会式に招待されたよ!
ぷくちゃん
ぷくちゃん
母校が勝って、自身が作曲した校歌聴けたんだって♪

福島県福島市最初の名誉市民ということで、同地には1988年11月12日に「福島市古関裕而記念館」も建てられています。この頃、古関裕而さんはすでに入院生活を送っていたため、足を運ぶことは出来ませんでした!

半寿の誕生日から1週間足らずの、1989年(平成元年)8月18日午後9時30分に脳梗塞のため聖マリアンナ医科大学病院で死去(享年80歳)しました

家系図は?

妻・古関(旧姓内山)金子さん

金子さんは、明治45年に愛知県豊橋市で生まれました。音楽好きだった金子さんは、高等女学校に進み、将来は声楽家になりたいと考えていました。

「福島の無名の青年が国際作曲コンクールで入賞」という新聞記事を読み、内山金子(きんこ)さんがファンレターを送りました。古関裕而さんとは4ヶ月ほど文通のやりとりをし、互いに恋心が芽生えます!豊橋まで会いに行った、古関裕而さんと一緒に福島に行き、そのまま結婚しました。

1930年(昭和5年)の秋に、日本コロムビアから招かれ、古関裕而さんと金子さんは上京。
阿佐ヶ谷にあった、金子さんの一番上のお姉さんの家でしばらく暮らした後、世田谷代田に家を構えます。
世田谷区代田は、金子さんが通うことになる帝国音楽学校のすぐそば。金子さんの通学の便を考えての家探しでした。

その後、帝国音楽学校で本格的に声楽の勉強を始めた金子さんですが、その才能は中山晋平さんにも絶賛されていました!

しかし戦後に長男が生まれ、子育てに専念するため声楽は辞めています。そして1980年7月23日に、乳ガンが全身に転移して、68歳で亡くなりました。

ぷくちゃん
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声楽は辞めたけど、家では毎日歌っていたんだって!

長男・正裕さん

1946年(昭和21年)、古関裕而さんと金子さんの長男として東京で生まれました。

高校・大学在学中は、学生カントリー・バンドやグループサウンズ「ヴィレッジ・シンガーズ」のキーボード、(財)MRAのシングアウト活動「Let’s Go」のミュージカル・ディレクターなどの音楽活動をします。

大学卒業後は、日本経済新聞社に就職しました。データベース・システム、オンライン情報サービス・システムの開発などに携わりますが、早期退職(定年扱)します。その後は、青山で輸入婦人服のセレクト・ショップ「ブティック・ラフィーナ」を営みながら小説「緋色のラプソディー」を執筆し出版!

父・古関裕而さんの生誕100年記念CD全集の企画・監修2009年日本レコード大賞企画賞を受賞します。2013年には、鈴木聖子さん・齊藤早苗さんと共にライブユニット「喜多三」を立ち上げました。

歌や演奏だけではなく、楽曲の紹介や曲にまつわるエピソードなどのトーク・ライブも行い、都内のホールやライブハウスを中心に活動しています。

正裕さんにとっては、過干渉な過保護の母で、しょっちゅう反発していたそうです!次第に、うまく対処することを覚え、金子さんの意見や小言は適当に「ハイハイ」と聞き流すようになります。金子さんは、正裕さんは素直で良い子だと思っていたようです。

正裕さんは、結婚して子供も生まれているようですが、詳しい情報がありませんでした。分かり次第、追記します!

長女・雅子さんと次女・紀子さん

古関裕而さん・金子さん夫妻には、二人の娘さんもいます。
長女の雅子さんが1932年(昭和7年)、次女の紀子(みちこ)さんが1934年(昭和9年)生まれです。
雅子さんは、裕而さんが23歳のときの子ども。現代の感覚だと、若いパパですね。

2020年4月30日放送の「あさイチ」に、長女の雅子さん(88歳)が電話で出演。近江アナウンサーのインタビューに答え、戦争中でも明るい太陽のようだった母・金子さんの思い出を語っていました。

そのときに紹介された家族写真には、古関裕而さん・金子さん夫妻を中心に、二人の少女(一人は雅子さん、20歳くらい?)と男の子一人の五人が写っていました。
古関さん夫妻には、現在74歳の長男、古関正裕さんがいますので、男の子がその正裕さんだと思われます。
もう一人、雅子さんと正裕さんの間の年齢になる少女が、次女の紀子さんだと思われます。
オルガンを囲んで笑っている、仲良さそうな表情が印象的な家族写真でした。

先日、NHKで古関裕而さんを特集した番組が放送され、その中で、1983年に放送された「この人『古関裕而ショー』~いとしきはわが調べ 激動の昭和を生きて~」の一場面が紹介され、紀子さんが出演していました。
紀子さんが、結婚するときに父親の古関裕而さんからもらった手紙を読み上げて、それを聞いていた当時73歳の裕而さんが涙ぐんでいる様子が印象的でした。

最後に・・・

いかがでしたか?

今回は、古関裕而さんの生涯や家系図を紹介しました!初めは、独学で作曲していた古関裕而さん♪しかし学んでいくうちに、次々と代表作を発表しています。そんな作曲された曲には、いろんなエピソードがありそうですよね!朝ドラ「エール」では、そんなエピソードも紹介されています。これからの展開も楽しみです♪

さて、放送が始まったエールでは、作曲された曲について以外にも、史実に基づいたさまざまなエピソードが出てきました。そちらをいくつか紹介しますね♪

裕一の「どもり」について

子どものころの裕一は、緊張すると言葉がうまく出てきませんでした。そのせいでいじめられたり、先生に叱られたりしたことも。
大人になった裕一も、ときどきどもったりしています。


この症状を「吃音」と言います。「どもり」と言われることもありますが、差別的なニュアンスがあるため、最近では「どもり」という言い方は避けられるようになってきています。
エールでは、北里大学の専任講師である原由紀さんが、吃音考証として参加しています。

実在モデルの古関裕而さんにも、吃音の症状があったという記録があります。
カキクケコの発音が苦手とか、緊張すると出てしまう、ということを古関さんご本人が語っています。

交響曲『竹取物語』の実在モデル

エールで裕一が国際作曲コンクールに応募し、2等を受賞した交響曲『竹取物語』。鉄男が募集の記事を裕一に見せて、応募するように勧めました。川俣銀行の同僚+鉄男の作戦会議も印象的でしたね。


このエピソードも、実際の出来事をドラマにアレンジしています。「古関裕而さんの青年期」で紹介したように、1929年に古関さんが作曲した舞踏組曲『竹取物語』が、国際的な作曲コンクールで実際に2位を受賞しています。
残念なことに、そのときの楽譜は今は行方不明に。聴くことのできない幻の曲になってしまっています。

その他にも、実家の家業が傾いたり、『竹取物語』の受賞が結婚のきっかけになったりと、古関裕而さんの生涯に沿ったエピソードはたくさんあります。

新型コロナウイルス感染症の影響で、放送が中断してしまっていた「エール」。いよいよ、9月14日からの再開も決まりました!
これからの放送も、期待して待ちたいと思います♪