NHK連続テレビ小説なつぞら
物語はとうとう残り一ヶ月半になり、なつや咲太郎が結婚、妊娠と盛り上がってきましたね。
なつの実在のモデルは女性アニメーターとしての先駆けとして実際に活躍した奥山玲子さんです。今回はなつの実在モデルである奥山玲子さんについて詳しく調べてみましたのでお伝えします。
〜もくじ〜
奥山玲子の家族
両親について
奥山玲子さん仙台の実家は、伊達藩家老「奥山家」の血筋です。父親は商人の家系で教師をしており、母親は伊達藩の国家老の次男の血を引く家柄でした。そのため奥山玲子さんの父親が母親の婿養子に入っています。
国家老とは、江戸時代の大名が参勤中で城を開けるときに城を守り政務を行う役職のことです。かなり上位の役職だったということですね。
今日の仙台城からの夕焼けは自分が今まで見た中では一番よかった。 pic.twitter.com/rwa1MeYDjB
— バター醤油 (@yohkan531) May 24, 2019
兄弟はいた?
奥山玲子さんに兄弟がいたことはわかっていますが、何人いたかなど詳しいことはわかりませんでした。
奥山玲子さんが少女時代に西洋童話を創作して、それを兄弟に演じさせて劇を披露したというエピソードがあったので、複数人いた可能性は高いです。
また詳しくわかりましたら追記します!
夫・小田部羊一について
昨日は #小田部羊一 さんのトークショーに参加。アニメ業界でのお仕事(水の表現や作画について)→任天堂でのお仕事(マリオなどのキャラクターづくり)→ものづくりの心得などなど、とても貴重なお話を聞くことができた。こういった内容はアーカイブ化と同時に世界に向けてもぜひ配信して欲しい。 pic.twitter.com/tCpOTaDwjT
— 橋本祐介 Yusuke Hashimoto (@yusuke8shimoto) 2018年10月14日
奥山玲子さんの夫はアニメーターの小田部羊一さんです。現在、「なつぞら」のアニメーション時代考証を担当しています。奥山玲子さんとは東映動画の同僚で、1963年に結婚。国際基督教大学で挙式をあげました。
小田部羊一さんは1936年台湾台北市生まれ。戦争が終わってから日本へ帰国しています。東京芸術大学を卒業後、東映動画に入社。同期入社には高畑勲さんがおり、5つ下には宮崎駿さんがいました。
東映動画では高畑勲さんや宮崎駿さんとチームを組むことも多く、高畑勲さん初監督作品「太陽の王子ホルスの大冒険」にも参加しています。ほかにも代表作として「長靴をはいた猫」「どうぶつ宝島」などがあります。
東映動画を3人で退社後は「アルプスの少女ハイジ」「母を訪ねて三千里」「風の谷のナウシカ」などの名作を共に作り上げています。
1985年には任天堂に入社。その後は国民的キャラクターであるスーパーマリオやポケットモンスターのキャラクターデザインを担当、監修しました。小田部羊一さんは任天堂に入社した時に「ゲームの世界にかつての東映動画の空気を感じた。」と話しています。
2010年には日本のアニメ史において作画の中心的な役割を果たした功績に対し、妻の奥山玲子さんとともに「東京国際アニメフェア2010」にて2010「東京アニメアワード第6回功労賞」が、2015年には第19回文化庁メディア芸術祭で功労賞も受賞しています。
現在はアニメーションの制作現場からは離れ、講演活動などをして過ごしています。今回のなつぞらのアニメーション時代考証の仕事は、妻の奥山玲子さんがヒロインのモデルとなっていることもあり引き受けたのかもしれませんね。
いや凄いわ、もう…感動した
エレベーターとかもマリオキャラクター仕様になってて…クッパ親子のやつめっちゃ可愛かった pic.twitter.com/leGEjY1vZx— *もなか* (@monaka_ugomemo) May 1, 2019
子供について
奥山玲子さんは1963年に小田部羊一さんと結婚後、東映動画で産休を取っていたことがわかっています。そのため、子供がいることはわかっていますが、性別や何人いるのかはわかりませんでした。
また詳しくわかりましたら追記します!
当時の東映動画は女性に対する差別があり、結婚後は仕事を辞めるという誓約書を交わした人もいました。奥山玲子さんはそのような風潮が許せず、結婚後も会社に残りました。東洋動画の女性社員で産休を取ったのも、結婚後も職場に残ったのは奥山玲子さんが初めてです。
奥山玲子さんの死因や生涯について
『なつぞら』の主人公・奥原なつは架空の人物だけど、奥山玲子という実在したアニメーターがモデルと言われてる。
奥山玲子は仙台出身で、女性アニメーターの先駆者的な存在らしい pic.twitter.com/L72AwQl3lo— いちな (@jmaieh) March 24, 2019
生い立ち
奥山玲子さんは1936年に宮城県仙台市で産まれます。幼い頃から病弱で、一年のほとんどを床に伏せるような幼少時代を過ごしました。
少女時代から文学少女で、小学4年生で「シェークスピア全集」や「日本文学全集」、「世界文学全集」を読んでいました。そのため、小学校時代の成績はとても優秀で病弱で欠席日数も多かったにもかかわらず卒業式では総代として卒業証書を受け取っています。
白水Uブックス『シェイクスピア全集』全37冊、入荷いたしました!滑稽、悲哀、苦悩、歓喜、陶酔… 深い洞察力によって人間のあらゆる感情を舞台の上に展開させたシェイクスピアの全劇作を収録。手に取りやすい新書判でお楽しみいただけます。#白水社 #戯曲 #英文学 #全集 #シェイクスピア pic.twitter.com/C5CSX9rRp5
— 愛書館・中川書房 (@aisyokan) 2017年3月4日
中学生になるまでは、自分で西洋童話を創作して作りその物語を兄弟に演じさせて年に2回は親戚や近所の人たちを集めて披露していました。この頃から、アニメーターとしてはもちろん創作する才能も持っていたのですね。
小学校卒業後はミッションスクールに進むと、戦争の影響で黒塗りにされた教科書を毎日使わせれることに不信感を抱き、教師や両親にも反抗的になります。「大人の言うことは聞かない!」と度々話していました。そして、徐々にフランスの哲学者シモーヌ・ド・ボーヴォワールに憧れていき影響を受けていきます。
人は女に生まれるのではなく、女になるのだ。シモーヌ・ド・ボーヴォワールは、1908年の今日生まれました。#BornThisDay pic.twitter.com/ehXgwnfDNV
— UN Women 日本事務所 (@unwomenjapan) January 10, 2018
シモーヌ・ド・ボーヴォワールはフランス人の女性の哲学者で、女性解放運動に積極的だった人物です。彼女の著作は多数あり、そのほとんどが邦訳されています。
学歴
中学校:宮城学院中学校
高校:宮城学院高校
大学:東北大学教育学部中退
奥山玲子さんが通っていた中学校に関してははっきりとしたことは分かっていません。しかし、高校が中高一貫教育を行っている宮城学院高校ですので自然と宮城学院中学と考えられます。
奥山玲子さんは、高校時代はとにかく本を読むことが好きでした。クラスメイトも読書家が多く、「高度な本を持つ」ことは学校内でのステータスだったのです。
高校時代の奥山玲子さんのエピソードとして、「フランスのカミュやサルトルの実存主義にかぶれました。私はボーヴォワールのようになりたいと思っていました。」と話していたそうです。かなり哲学に興味を抱いていたことがわかりますね。
東北大学教育学部に入学したのは、教師をしていた父親からの強い勧めで本人の意思ではありません。そのため、教師になる気にはなれず2年生の時に中退しています。その後は家出同然で上京し、外国語を学ぶ意欲を持っていました。
旧友に会うため、母校の新校舎に来てみた。
とても綺麗。#東北大学 pic.twitter.com/28SKORPsXu— 福田敦史 / Aillis CTO (@fukumimi014) May 4, 2019
死因
5月6日は、アニメーター・銅版画家として活躍された
奥山玲子さんの命日でした。
奥山さんは2007年5月6日に亡くなりました。
今年は十三回忌にあたります。
奥山さんには公私共に大変お世話になりました。
心からの感謝と共に故人を偲びたいと思います。https://t.co/niuAHGlypj#奥山玲子 pic.twitter.com/zRBxkdyTzl— 叶 精二(Seiji Kanoh) (@seijikanoh) May 6, 2019
奥山玲子さんは2007年5月6日に70歳で亡くなりました。死因は肺炎です。2007年に入ってから体調を崩し、そこへ重度の肺炎にかかってしまったことで命を落としました。最後は家族に看取られてなくなっています。
奥山玲子さんが亡くなってから少し時間をおいた9月に夫である小田部羊一さんは、親交のあった市民運動家の吉川勇一さんに奥山玲子さんの死去に関する思いを綴った以下のメッセージを送っています。
「人生のどこで終わりが来ても悔いはない」
奥山玲子はそう言っていました。
知らないうちにいつの間にか居なくなっていた…。
そういうのもいいな、と話していました。
今年の初めから体調不良を訴えていましたが、思いもしなかった重度の肺炎です。
看取ってあげるというのは前からの約束なのでそれが出来たことだけがひとつの慰めです。
44年間の共同生活です。楽しいこと面白いことはすべて奥山が考えてくれました。
妙な取り合わせの二人でしたが充実した日々でした。
銅版画を全部動かすアニメーションを作ろう想を練っていたのですが…。それだけは心残りかもしれません。
アハハ。とどこかで笑い声がしたら思い出してください。
長い間ありがとうございました。
吉川勇一さんの個人ホームページより www.jca.apc.org
仕事の経歴
奥山玲子さんは東北大学を中退後に上京し、たまたま映画関係の職業についていた叔父から、東映動画の一般募集を教えてもらいます。その時、奥山玲子さんは東映「動画」と「童画」を勘違いしており、絵本に携わる仕事だと思っていました。しかし、奥山さんは見事採用試験に合格し1957年に東洋動画に入社します。
奥山玲子さんが担当した仕事は「白蛇伝」の動画でした。豚の殴り合いやイタチの歩きなど主に動物の動画を担当しました。
動物の悪役にイタチ?が出てくるんですが、この目つきが『ガンバの冒険』のノロイに通じるものがあったりして、タヌキ同様に妖怪・悪者扱いされるイタチのイメージ感というものを考えたり考えなかったり。 pic.twitter.com/SW4IX6xokY
— 荊冠 (@GothicCrown) September 4, 2017
その後、2作目となったのが「狸さんの大当たり」です。この仕事で奥山玲子さんの仕事ぶりは高く評価され、異例の早さでセカンドに昇格しました。これ以降東映映画製作の数々のアニメーション映画に携わり、作画監督として活躍を続けます。
1971年に東映の社長である大川博が死去すると、東映動画は赤字続きだったためリストラを始めます。このため労働組合と会社が激しく対立し労働闘争へと発展。女性の作画は奥山玲子さん以外は全員解雇される事態になります。
その後、労働紛争が和解されても奥山玲子さんは「この機を逃せば辞められない…。」と考え、東映動画を退社します。
1976年に東映映画を退社すると、日本アニメーションへ入社。日本アニメーションは夫である小田部羊一、高畑勲、宮崎駿が所属していました。日本アニメーションでは「世界名作劇場」の「母を訪ねて三千里」で作画監督補佐を担当。しかし、会社という組織の中で働くことに嫌気がさしていた奥山玲子さんはその後フリーになります。
今日の放送でやっとマルコがお母さんに会えた!ここまで長かったよね〜。もう何度も見てるのに、また泣いてしまったよ(´;ω;`) #母をたずねて三千里 pic.twitter.com/ufNgZU9oGn
— もけ/moke (@moke_5) September 29, 2014
フリーとなった後は、夫である小田部羊一さんと「あんていろーぷ」名義で活動します。奥山玲子さんは実績が十分だったため、フリーになっても仕事が途絶えることはありませんでした。「キャンディ・キャンディ」や「まんが日本絵巻」の製作に携わります。
1985年からは東京デザイナー学院アニメーション科の講師を務め、後進の育成にも力をいれます。主な育成活動は次の通り。
1985年~ 東京デザイナー学院アニメーション科
1986~1988年 動画工房
1991~1992年 日本アニメーション
1996~2003年 ディズニージャパン
1990年代以降は銅版画の製作にも力を入れ、個展も開かれました。奥山玲子さんは死の間際まで銅版画への意欲を持ち続けていました。
奥山玲子のファッション
奥山玲子さんは東映動画時代、毎日違う服を着ていました。同僚の大塚康生さんと角田紘一さんが奥山玲子さんがあまりにも違う服を着てくるので毎日スケッチをしていました。しかし、いつまでたっても同じ服を着てこないので、根をあげてスケッチを止めてしまったというエピソードがあります。
同じ服を着てきたとしても、バンダナやアクセサリーが違っていたり組み合わせを変えたりしていました。「アニメ界のドレッサー」とまで呼ばれていたというから驚きです!
なつぞらでも広瀬すずさん演じる奥原なつは東洋動画に入社後はファッショナブルになるようです。このエピソードも出てくるでしょうか?楽しみですね。
来週は第9週
なつのビジュアルが
一久さんとの予告に近づいてきた〜
早く出てきて♡
Mr.理不尽プリンス(笑)#広瀬すず#中川大志#なつぞら pic.twitter.com/479BkuaOBU— りりぽむ (@tanpopojima) May 25, 2019
奥山玲子の作品について
奥山玲子の主な代表作
・「白蛇伝」作画担当
・「わんぱく王子の大蛇退治」原画
・「魔法使いサリー」作画監督
・「長靴をはいた猫」原画
・「海底3万マイル」作画監督・原画
・「ひみつのアッコちゃん」作画監督
・「マジンガーZ」作画監督・原画
・「母を訪ねて三千里」作画監督補佐
・「火垂るの墓」原画
… 火垂るの墓… pic.twitter.com/Nap6NNPD1a
— Ochaco (@AnimeDoorway) May 24, 2019
ジブリとの関係
奥山玲子さんの東映動画時代の後輩には高畑勲さんや宮崎駿さんがおり、スタジオジブリとも深い繋がりがありました。今までお伝えした通り、夫である小田部羊一さんも2人と深い繋がりがあり、実際に「風の谷のナウシカ」の制作には小田部羊一さんも加わっています。奥山玲子さん自身は「火垂るの墓」の原画を担当しています。
奥山玲子さんはスタジオジブリのことを以下のように話しています。
スタジオジブリは若いスタッフが多く、宮崎駿に遠慮がある。線の拾い方が甘く、クリーンアップが良くない。作画の上で認めているのは「もののけ姫」と「風の谷のナウシカ」。
芯が強くて物事をハッキリと言う奥山玲子さんらしく、宮崎駿さんに対してもはっきり自分の意見を言っていたのですね。
奥山玲子は小田部羊一と2人で受けたインタビューを読んだことがあるが、かなりズバズバと言うタイプの人で、当然、宮崎駿を神格化もしておらず(後輩だもん)、面白かった。
— ブックストア ウディ本舗 (@woody_honpo) February 16, 2019
最後に
幼少時代から才能に溢れ、また努力も惜しまなかった奥山玲子さん。自分の意思を強くもち、意見も言える女性でした。
なつぞらはとうとうアニメーション編に入ります。これからなつがどのように成長していくか期待大です。
そして、奥山玲子さんが実在モデルですからどんなエピソードが実際に放送されるのかも楽しみですし、結婚相手も気になるところです!
今後のなつぞらの展開を楽しみに待ちましょう♪