まんぷく

安藤百福(あんどうももふく)の生涯について!家系図もチェック

NHK連続テレビ小説第99作目まんぷくの実在モデルになったのはカップヌードルやチキンラーメンでお馴染み日清食品の創業者安藤百福さんです。

この安藤百福さんは超がつくほど破天荒で真っ直ぐ!やることなすこと正しいけど周りを全力で振り回す方でした(笑)しかし、信念があり「食が人を助ける」とずっと思い続けながら生きていました。

 

そんな安藤百福さんについて描かれる「まんぷく」今からどんな展開になるのか楽しみで仕方ありません。なので今回は安藤百福さんについて書かれた書籍を5冊読破した私がどんな人だったのかを詳しく紹介します♪

安藤百福(あんどうももふく)の生涯について!

今回、長谷川博己さんが演じる立花万平の実在モデルは日清食品の創設者「安藤百福さん」です。この安藤百福さんがどれだけすごい人なのかを詳しくご紹介します。

1910年3月5日:当時植民地だった台湾で安藤百福さんが誕生します。

安藤百福さんは生まれつき耳が大きかったことから「みんなの声をよく聞き、世の中の役に立つことをして、たくさんの福を運んでくるように」という思いを込められて「安藤百福」と名付けられました。

そんな両親は病気になり安藤百福さんが小さいうちに亡くなってしまいました。

まんちゃん
まんちゃん
安藤百福さんは日本生まれかと思ってたら台湾生まれだったんだね!
ぷくちゃん
ぷくちゃん
全然知らなかったよ!

1924年14歳:高等小学校を卒業し、おじいさんの経営する繊維業を手伝います。

安藤百福さんはイキイキと働いている人たちを見によく工場に出入りしていました。この時、おじいさんに「一生懸命仕事をすればお客さんに信用してもらえるから楽しく商売が出来るんだよ。」と教えてもらいます。

1930年20歳:安藤百福さんは本が好きだったことから知人の進めで「図書館の司書」になります。

しかし、”本を読むのも大切だがやっぱり僕は大勢の人に囲まれて商売するほうが好きだな”と思い2年で辞めてしまいます。

まんちゃん
まんちゃん
私の20歳とは大違い(笑)
ぷくちゃん
ぷくちゃん
この時からすでに商売が好きだなんておじいちゃんの影響だったんだろうね♪

1932年22歳:「東洋莫大小(めりやす)」を作り、独立します。

安藤百福さんはメリヤス(よく伸び縮みする布で肌触りがいい)を使って靴下や肌着などお客さんに喜ばれる商品をどんどん作ります。

この時に心掛けたのが「取引は腹八分目。満腹になるまでお客さんから取りすぎるとお客さんに負担を掛け過ぎてしまう。だから少し儲けが少なくなっても”お互いが気持ちよく付き合えるのが商売の基本”」

そう言ってメリヤスの仕事は大成功しました。

まんちゃん
まんちゃん
腹八分目なんてなかなか考えられないような気がする
ぷくちゃん
ぷくちゃん
でもそこでそうしたからこそ安藤百福さんは大成功したんだろうね♪

1933年23歳:台湾から繊維産業の盛んだった大阪に進出。「日東商会」を設立します。

大阪でも安藤百福さんは大成功。常に商品が足りないほどの人気でした。
そこで安藤百福さんは日本一のメリヤスの製造業者「丸松」と取引をしようと言いだしますが、社員たちは「こんな小さな会社と取引してくれる訳がない!」と否定します。

しかし丸松に行くと安藤百福さんは熱弁!丸松はその思いを買ってくれ取引を開始することになりました。

まんちゃん
まんちゃん
誰もが否定するところに行くのがすごいね!
ぷくちゃん
ぷくちゃん
その情熱が伝わったからこそ取引開始してくれたんだろうね♪

1938年28歳:国家総動員法により、メリヤスの貿易ができなくなります。

国家総動員法が施行され、あらゆる物資が統制される世になっていました。安藤百福さんが扱っていたメリヤスも例外ではなく、仕入れが滞るようになっていました。

そのとき唯一景気が良かったのが「軍需関連の産業」

そこで安藤百福さんが思いついたのが軍需工場の工員教育に用いるための「幻灯機の製造」でした。

元々工場で働いていた若い男性の工員は招集されてしまったため、工場には学徒動員で集められた女学生などの素人工員が増えていました。機械の扱いも知らない者ばかりだったので、各工場では講師や技師が新人工員を集めて機器の扱い方を教えました。

その時に幻灯機を使って、大きなスクリーンに大きく投影した写真を見せながら説明していたのですが圧倒的に数が不足。

軍需関連の仕事であれば資材も優先的に回してもらえ、その後軍との関係も良くなり、さらに軍需関連の仕事をこなしていきました。

1941年31歳:太平洋戦争が始まり、仁子さんに出会う。

安藤百福さんは戦時中、知人に大阪倶楽部の受付で働いている女性と結婚する気はないか?と尋ねられます。
(※大阪倶楽部とは大阪の実業家たちが会員になり、互いの交流を深めるための名門の社交クラブです。)

安藤百福さんはひと目で仁子さん(安藤サクラ)を好きになりアタックしますが、仁子さんに「こんな時代なのでみんな祝福されないので結婚する気はない」と断られてしまいます。

でもそこで諦めないのが安藤百福さん。何通も何通もラブレターを送り続けます。

再度会った時に仁子さんと安藤百福さんはこんな会話をします。

仁子「戦争をすることが日本のためになると言われていたのに状況は悪くなっていくばかり。一体世の中はどうなるのでしょう?」

百福「違いますよ。世の中がどうなるかって心配ばかりするのは間違っています。自分でどうするかが大切なんです。」

仁子「強いんですね」

百福「強くなるんです」

この会話をきっかけに仁子さんは安藤百福さんとの結婚を決めました。

まんちゃん
まんちゃん
仕事にだけ熱心っていうわけじゃなくて何にでも情熱を全力で注ぐ人だったんだね(笑)
ぷくちゃん
ぷくちゃん
それに「自分でどうするかが大切」って今の私にでも響くくらいすごい一言だよね!

仕事に一生懸命打ち込んできた安藤百福さんでしたが、空襲から逃れるために兵庫県の南西部に移り住みました。

そこで始めたのが「炭作り」。安藤百福さんは”戦争で物が足りない今、どの家でも燃料が必要になってくるのでは?”と思い山を買って炭作りを始めたのです。

1946年36歳:終戦後、大阪梅田の闇市でラーメン屋台に並ぶ行列を見ます。

安藤百福さんは戦後の厳しい中、1杯のラーメン(当時の支那そば・南京そば)が笑顔をもたらすことに感動します。そこで「人間にとって食べることがいちばん大切なんだ」ということを再認識します。

同年、安藤百福さんは大阪府泉大津市で100人以上の若者を集め、製塩業を始めます。しかしここでできた塩は売るのではなく、近所に配るだけ。戦争が終わってどうしたらいいのかわからない若者に希望を持ってもらいたい!と父親代わりになっていたのです。

1948年38歳:大阪府泉大津市で「中交総社(のちの日清食品)」を設立し翌年、「中交総社」から社名を「サンシー殖産」に変更します。

1949年39歳:GHQに疑われ、拘置所に入れられます。

安藤百福さんはいきなり「脱税」の容疑でGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)に逮捕され裁判では「重労働4年」という判決が下されてしまいました。その理由は塩田の若者たちに渡していたお小遣いが給与とみなされ、税金を払ってないものとされたからです。

しかし、安藤百福さんにとっては全くの濡れ衣でこれは一種の見せしめで、税金を払ってない人たちに対して「これからは厳しく取り締まるぞ」という脅しだったのです。そこで安藤百福さんは「悪いことなどしていないのに納得がいかない」と弁護士を立てて税務当局を訴え、徹底的に戦うことにしました。

アメリカ軍が管理する「巣鴨プリズン(東京拘置所)」での生活は塀の外にいるよりいい生活で重労働など一切なく、食事はアメリカ兵と平等、タバコも配給されるのでそのタバコを賭けて麻雀や花札で博打が行われているくらいでした。

そうするうちに税務当局の役人が「訴えを取り下げてもらえないか。そうしたらすぐに自由の身にしてもいい」と言われます。このまま裁判を続けていれば安藤百福さんの無実は明らかになり、自分たちが不利になるとわかっていたからです。そのため安藤百福さんは首を縦には振りませんでした。

しかし、2年ほど経った頃それまで毎月面会に来てくれていた仁子さんが初めて子どもたちを面会に連れてきました。息子の宏基くんは3歳、娘の明美は1歳半になっていました。

そこで仁子さんに「訴えを取り下げてください。」と仁子さんに泣いて頼まれても「裁判が終わるまでは辛抱してくれ」と言い続けてきた百福さんもさすがにこれには堪え、訴えを取り下げ、出所することにしました。

晴れて自由の身になったものの、大阪の家や製塩所は立ち退きになってしまい若者たちは散り散りになっていました。それでもまだそれなりのものが残っていた安藤家は再起し、事業を進めました。

1951年41歳;信用組合の理事長に就任します。

当時事業で成功していた安藤百福さんを理事長にして世間の信用を得たいという信用組合に無理を言われ、渋々理事長に就任します。

1957年47歳:信用組合が倒産し、財産を全て没収されました。

安藤百福さんの不安は的中。信用組合は倒産。名前を貸しただけと言えども経営のトップは安藤百福さんだったので責任を取らされて、財産を全て没収されてしまいました。

幸い、自宅は借家だったので済むところだけは失わずに済みました。

まんちゃん
まんちゃん
せっかく今まで頑張ってきたことをこんなことで一瞬で奪われるなんて最悪。
ぷくちゃん
ぷくちゃん
でもここできっと諦めないのが百福さんなんだろうね♪

1957年47歳:チキンラーメンの開発に取り掛かります。

安藤百福さんは全て財産を取られてもめげず、「そうだ、ここで負けてたまるか。失敗した分、経験が血や肉となって身についたと思えばいいんだ!私には元気な身体があるし、大切な家族もいる。今までだって何度も挫折や失敗があった。また一からやり直せばいいんだ!」新しい事業のためにと家の敷地内に研究所を作ります。その新しい事業というのが終戦後闇市でラーメンを食べているのを見て思いついた「店も屋台も要らない。お湯だけで食べられる手軽なラーメン作り」です!

いくら料理ができると言っても、ラーメン作りについて全く知識がなかったためそう簡単に作ることは出来ませんでした。結果、麺を完成させるまでに1年近くかかりました。

このときの発見を安藤百福さんは「結局食品はバランスだということがわかった。食品の開発はたった一つしかない絶妙なバランスを発見するまでこれでもかと追求し続ける仕事なのである」と語りました。

1958年48歳:チキンラーメン完成。

ラーメン作りの最後の課題はラーメンの乾燥方法でした。生麺ではすぐにカビが生えたり、腐ってしまう。それをどうしたらいいか悩んでいた時に仁子さんは思いがけず、ヒントをあげることになりました。それは夕飯のおかずの「天ぷら」です。

その様子を見ていた夫は「そうかこれだ!この方法を使えば即席ラーメンが出来るぞ」と大喜び。これが今や世界で年間1億食以上食べられている即席ラーメンの原理を発見した瞬間でした。

それからは家族総出で即席ラーメン作りスタート!遊びたい盛りの子どもたちは文句も言わず、手伝いました。百福さんはモダンなところがあり、セリフの端々に英語を使うのが好きでした。家族に仕事を頼む時に鶏のスープとは言わず「チキンスープの元は出来たか」や「チキン運んでくれ」など「チキンチキン」いうので家族も「チキン」というようになり即席ラーメンの名前が「チキンラーメン」になりました♪

8月25日にチキンラーメンの販売を開始。お湯を注ぐだけで食べられるなんて「魔法のラーメン」と言われおいしさと手軽さから大ヒット商品になり、またたく間に日本中で食べられるようになりました。この頃から製塩所のときの若者が少しずつ手伝いをしてくれるようになりました。

まんちゃん
まんちゃん
魔法のラーメンって言われて売れたのはすごく嬉しかっただろうね♪
ぷくちゃん
ぷくちゃん
無一文からここまでやる百福さんはやっぱりすごいね!

この噂はアメリカにまで届き、サンプルを送ったところ、先方からすぐに500ケース送ってほしいという連絡が入りました。当時は工場もなく、小さな研究所では作業が追いつかなくなり1958年の夏頃になると予算100万円(現在の約2000万円)をかけて工場を建設し始めます。

12月に「サンシー殖産」から社名を今現在の「日清食品」に変更します。

日清食品の由来は「日々清らかに豊かな味をつくる」という意味です。チキンラーメンには追い風が吹き続けます。食べた人々の間で「精力がつく」「肌艶が良くなった」など噂が広がったのです。またこの噂は真実でした。

鶏をまるごと圧力釜で煮詰めたスープには様々な栄養が抽出されており、詳しい検査期間に分析を依頼すると自分の予想以上に様々な栄養分が多量に含まれていることがわかったのです。

当時、日本国民は健康への関心が薄く、栄養バランスが相対的に悪かったのです。そこで厚生省は分析により栄養価の高さが証明されたチキンラーメンを「妊婦の健康食品」として推奨するようになり、知名度はさらに高まりました。

1962年52歳:「味付け乾燥麺の製法」と「即席ラーメンの製造法」の特許を取得します。

安藤百福さんは特許を取得したものの61社もの会社と契約し、特許を利用させるようにしました。こうしたことにより各地の人々の風土や好みに合わせ、それぞれの地域でもっと美味しく食べられるインスタントラーメンが次から次へと開発され、インスタントラーメン業界は一気に発展していきました。

日清食品の売上は1964年になると43億3千万円に達しました。世間からは「大企業」「一流企業」と認められるようになりました。

1966年56歳:海外進出をするために、アメリカとヨーロッパを視察に行きます。

この時、視察先でチキンラーメンを食べてもらおうとしますが、海外にはどんぶりがないことに気づきます。そのとき、代用されたのが「紙コップ」でした。

まんちゃん
まんちゃん
この海外視察がカップヌードルを作るようになったきっかけだったんだね!
ぷくちゃん
ぷくちゃん
たしかに外国にどんぶりってない気がする。

1969年59歳:視察でヒントを得た安藤百福さんは海外進出するためにカップヌードルの開発に取り掛かります。

今までのチキンラーメンとは発想を変え、「はじめから容器に入っているインスタントラーメン。」
①麺を包む包装材料であり
②お湯を入れれば調理器具になり、
③食べるときには食器になる
この3つの役割を果たすのが究極のラーメンだったのです‼

1971年61歳:カップヌードルが発売されました。

しかし当時チキンラーメンが20〜30円の時代に100円もするカップヌードルはなかなか売れません。

しかし、安藤百福さんは「カップヌードルは世界を変える!」と言ってお客様の生の声を直接聞くために11月に東京銀座の歩行者天国で「カップヌードル試食販売会」を行いました。

そこでは大盛況!!今まで全く売れなかったカップヌードルが1日で2万食を売り上げる日もあり、ニュースになるほど話題になりました。

1972年62歳:浅間山荘事件が発生。その時に警察の機動隊がカップヌードルを食べている映像が全国中継され、カップヌードルが爆発的に売れ始めます。

まんちゃん
まんちゃん
浅間山荘事件知ってる!よく過去のニュースで必ずって言っていいほど出てくるけどこれがヒットの火付け役だったとは・・・
ぷくちゃん
ぷくちゃん
何がきっかけで物が売れ始めるかってわからないものなんだね♪

1973年63歳:アメリカでカップヌードルの販売を開始します。

安藤百福さんの予想通りカップヌードルは世界にも受け入れられていきました。

1981年71歳:安藤百福さんは社長職を引退します。

その前年の売上が1千億円を突破して業界で盤石の地位を築いていました。そこで百福さんは宏基のほかに台湾で過ごしていた頃の奥さんとの子どもである宏寿を2代目の社長にします。(宏寿はすでに戦前から日本に引き取られており、仁子さんが我が子のように安藤家で一緒に暮らしていました)

しかし楽隠居するわけでもない百福さんは自分が元気なうちに後進を育てておかなければという思いから毎日出社し続けます。引退しても会社の経営に口を出す父にイラ立ち宏寿は2年後に社長を退任してしまいます。そして百福さんがまた社長に復帰しました。

1985年75歳:再び社長退任。会長職に退きます。

次は仁子さんの実子である次男「宏基」が3代目社長に就任します。だがこの2人は似ているところがあり、強い意志同士がぶつかって争いが絶えませんでした。時には自宅に呼びだされ説教されることも多々。しかし、宏基も黙っておらず、反論。壮絶な親子喧嘩は続きました。

1995年85歳:阪神・淡路大震災の被災地にインスタントラーメンを届けるために「キッチンカーのチキンラーメン号」を用意し、緊急支援をしました。

安藤百福さんは各地の避難所を連日休まず回り、15000食ものインスタントラーメンを配給しました。

1999年89歳:大阪府池田市に「インスタントラーメン発明記念館」を作ります。

2005年95歳:宇宙飛行士の野口聡一さんに宇宙でもカップヌードルが食べたいとお願いされ、世界初の宇宙食ラーメン「スペース・ラム」が開発される。

安藤百福さんは国も人種も違う人達が同じ宇宙空間でラーメンを食べられるなんて夢があると言って喜びます。

2007年96歳:急性心筋梗塞で亡くなります。

安藤百福さんは自分が開発したチキンラーメンを毎日のように食べ続けました。その理由はインスタントラーメンは体に良くないかもしれないという噂が流れたからです。しかしその噂を証明するために自分が健康であり続ければいい!と言って亡くなる前日まで食べていました。

家系図もチェック

それでは早速安藤家の家系図を紹介します。

この家系図を見たらわかるように百福さんは実は台湾出身で仁子さんに出会う前に奥さんと子どもが一人いました。

早くに両親を亡くし、祖父母に育てられた百福さんは家族というものが恋しく、台湾で早くに結婚したのです。しかし、百福さんはせっかく築いた家庭を捨て、事業を拡大するために単身で日本へ移住してしまいました。

そんな百福さんは仁子さんに一目惚れをし、猛アプローチを受けた結果、結婚が決まりました。その時に問題になったのが台湾に残してきた妻子。離れて暮らしていても法律上の夫婦関係は続いていたのです。

台湾では昭和5年(1930年)に一夫多妻制が禁止されました。しかし、それ以前は公然と認められていました。周囲も今の時代とは違ってとやかく言われること無く、ごく自然なことと受け止められるほどでした。当時の日本においても正妻の他に愛人を持つということは、富裕層ならごく当然のことでした。

まんちゃん
まんちゃん
まさかこんな人だったとは・・・むしろ日本人とてっきり思ってたよ!
ぷくちゃん
ぷくちゃん
一夫多妻制が普通だったなんて今じゃ考えられないよね(笑)

台湾では一夫多妻制は廃止したものの戸籍上の「妾」は認められていました。そのため百福さんは正妻はまだ不在ということで日本での仁子さんとの結婚が認められ、「安藤百福」になりました。

台湾で生まれた百福さんの長男「宏寿さん」はすでに戦前から日本に引き取り、安藤家で一緒に暮らしていました。仁子さんも我が子として育ててくれました。

まんちゃん
まんちゃん
まさか日本に引き取られてたとは!?
ぷくちゃん
ぷくちゃん
お母さんと離れて異国の日本に連れてこられた宏寿さんはさぞ心細かっただろうね・・・

 

こういう昔の男女の関係は朝ドラでは描きにくいところかもしれませんね。でもこれは事実なので頭に入れておくと面白いかもしれません!
あくまでもNHKは「実在の人物をモデルとしますが、激動の時代を共に戦い抜いた夫婦の愛の物語として大胆に再構成し、登場人物や団体名は改称した上、フィクションとしてお届けします。」と公式ホームページに書いてあります。
なのでまんぷくでは原作を元にどんな風に描かれるのか、それも楽しみにしておきましょう♪