エール

古賀政男(エール木枯モデル)の子供は皆養子!自殺未遂の過去も!?

2020年度前期のNHKの連続テレビ小説「エール」

歌える俳優さんたちが多く出演していて、新しいファン層を獲得していると話題の「エール」。
歌が上手なことで知られる俳優さんたちが登場すると、今日は歌のシーンはあるのかな?と期待してしまうほどです。
そんな「エール」に音楽会からの出演を果たしている4人組ロックバンド「RADWIMPS」のボーカル野田洋次郎さんが演じる木枯正人の実在モデルは作曲家の古賀政男さんであることでも知られています。

まんちゃん
まんちゃん
「ちょいちょい愛してる~」はすぐ話題になったよね!
ぷくちゃん
ぷくちゃん
「丘を越えて」でさらに注目が集まってるよ!

今回はエールに出てくる「木枯正人」とその実在モデルである「古賀政男」について詳しく紹介します♪

実在モデル・古賀政男とは?

名前:古賀政男(こがまさお)
本名:古賀正夫(こがまさお)
生年月日:1904年11月18日
出身:福岡県三潴郡田口村(現・大川市)
職業:作曲家・ギタリスト

経歴

・明治37年 福岡県三潴郡田口村(現在の大川市)に生まれる
・大正元年 兄がいる朝鮮仁川に移る(その後、京城へ)
この頃、大正琴をはじめる 
・大正6年 京城善隣商業学校に入学
仲の良かった兄・久次郎からマンドリンを贈られる
・大正12年 明治大学予科に入学
マンドリン倶楽部の創設に参加
・大正15年 明治大学商学部に進学
・昭和4年 明治大学商学部を卒業
・昭和6年 コロムビアレコードと専属契約を結ぶ
「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」が大ヒット
・昭和9年 テイチクレコードに入社
・昭和13年 音楽親善使節としてアメリカへ視察へ行く
・昭和14年 再びコロムビアレコードと専属契約を結ぶ
・昭和34年 日本作曲家協会を設立し、初代会長となる
・昭和53年 急性心不全のため73歳で死去
10日後に音楽家として初めて国民栄誉賞受賞

生い立ち

古賀政男さんは明治34年に福岡県で生まれます。
7歳のときに父親が亡くなってしまい、働いていた兄がいた朝鮮に兄弟で移り住みます。
多感な時期に生まれ故郷を離れた古賀政男さんは感情の起伏も激しい学生時代を過ごします。
大正琴やマンドリンに触れる機会が多くなり、弦楽器への愛を深めます。
しかし、音楽が商売の邪魔になるとされ、兄からは大阪に奉公に出されてしまいます。
既にマンドリンに熱中していたため、家族からは勘当されながらも上京してきました。

明治大学に入学した後は、マンドリン倶楽部の創設にも関わります。
明治大学マンドリン倶楽部は現在も活動していて、迫力とレパートリーの多さを特長として今でも人気です。
その人気の高さは海外でも公演を行うほどです!
古賀政男さんもマンドリンで演奏できる歌謡曲を沢山作曲し、マンドリンの大衆化・普及に大きく貢献しました。

昭和4年には旅で訪れた宮城県の温泉で自殺を図りますが、近くにいた友人の助けで未遂に終わりました。
その頃の人生の苦悩や絶望の叫びが、後の「影を慕いて」という曲に込められています。
自殺未遂を図った場所には、「影を慕いて」の歌碑が建立されています。

昭和6年には作曲には自信がなかったものの、コロムビアレコードと作曲家として専属契約を結びます。
この頃、東京音楽学校に在籍中の藤山一郎と出会い、藤山一郎の表現力で古賀政男の才能を開花させました。

このゴールデンコンビで数々のヒット曲を生み出します。

昭和13年には音楽活動の傍ら、外務省の音楽親善使節として海外に視察にいき、ハワイ、アメリカ、アルゼンチンを訪れます。
帰国後は「古賀ギター歌謡協会」(後の古賀ギター学院)を設立し、指導者への道へと進みます。
昭和34年には日本作曲家協会を設立し、日本レコード大賞を創設します。
自身が創設した日本レコード大賞を昭和40年に美空ひばりさんは歌う「柔」で受賞しています。

昭和53年に明治大学のマンドリン倶楽部の演奏会で指揮を務めたのが公の前に見せた最後の姿になり、演奏会から1ヶ月後に急性心不全で亡くなられます。
その10日後には野球の王貞治さんに次いで2人目となる国民栄誉賞を受賞しました。

まんちゃん
まんちゃん
亡くなる前から国民栄誉賞の話は出てたのかな?
ぷくちゃん
ぷくちゃん
生きているうちに賞を貰えたらよかったのに…

日本レコード大賞を創設

古賀政男は昭和34年には日本作曲家協会を設立し、初代会長に就任します。
その際、日本レコード大賞を創設しました。
今でも年末の風物詩と言えば「レコ大」と思う人も多いと思います。
30日にレコ大を見て、31日に紅白…というのが毎年のお決まりという人もいるのではないでしょうか?

近年のレコード大賞 受賞曲
2019年 パプリカ(フーリン)
2018年 シンクロニティ(乃木坂46)
2017年 インフルエンサー(乃木坂46)
2016年 あなたの好きなところ(西野カナ)
2015年 Unfair World(三代目 J Soul Brothers from EXILE TRIBE)


やはりレコード大賞というだけ受賞曲とあり、どれも有名な曲ですね!
ここ数年、若者に人気の曲が何年も続いていましたが、2019年は「パプリカ」という幼稚園児にも運動会のダンスで使われるような曲が選ばれ、雰囲気がガラリと変わりました。
大人も子供も誰もが楽しめる曲が選出されるというのは嬉しいですね!

古賀政男の代表曲

ここで古賀政男の代表曲をご紹介します。
今の60~70代の方でしたら古賀メロディーとしてドンピシャな世代かもしれません。
若い世代の人でも、どこかで聞いたことがあるという曲が沢山あると思います!

影を慕いて     歌:藤山一郎・森進一
酒は涙か溜息か   歌:藤山一郎
丘を越えて     歌:藤山一郎
サーカスの唄    歌:松山晃
東京ラプソティ   歌:藤山一郎
人生の並木路    歌:ディックミネ
人生劇場      歌:楠木繁夫・村田英雄
柔         歌:美空ひばり
悲しい酒      歌:美空ひばり

既にエールでも登場している曲もありますね。
そしてエールで登場しや山藤太郎の実在モデルである藤山一郎とのタッグを組んでいることが多くあります。
この2人はゴールデンコンビだったのですね!?

家族について

父・喜太郎 母・セツ

古賀政男は父・喜太郎、母・セツの間の男6人、女2人の8人兄弟のの五男として生まれました。
父・喜太郎は農業の傍ら、瀬戸物の量り売りをして生活していました。
しかし、父親は古賀政男が幼いときに肝臓病で亡くなってしまいます。
生活の中にある身近な音楽を楽しみに過ごす古賀政男でしたが、母子家庭となった一家の生活は苦しく、追い打ちをかけるように自宅が火事で燃えてしまいます。
どうにもならなくなった一家は、政男の兄がいた朝鮮・仁川に身を寄せることになりました。
しかし母と兄弟の折り合いが悪く、生活は別々にすることとなります。
母親と過ごした時間も長いためか、古賀政男にとっての母親は特別な存在となりました。


古賀政男は昭和8年に結婚するも、当時は古賀政男自身も作曲家としての絶頂期でした。
「古賀メロディー」という言葉まで生まれるほど有名になりましたが、同時に流行作曲家としての重圧はものすごいものでした。
そんな古賀政男を流行作曲家にしていたのは藤山一郎の歌声でもありました。
しかし、藤山一郎はライバル会社であるビクターに移籍してしまいました。
最大のパートナーを失った古賀政男は精神的なバランスを崩していきました。

古賀政男は自他ともに認めるほど、自分の母親を理想の女性として思っていました。
新婚間もない古賀政男の妻にそんな重責も務まるわけもなく、結婚から1年も経たずに2人は離婚してしまいます。
その後、古賀政男は結婚することはありませんでした。

養子・山本丈晴


作曲家でありギタリストである山本丈晴も古賀政男の養子の一人です。
もともと古賀政男に師事していて、古賀メロディーの普及に貢献してきた縁もあり、古賀政男の養子となります。
出生名は古屋武治でしたが、音楽活動は古屋雅章という名義で活動開始しました。
古賀政男の養子になったときに、古賀丈晴名義にし、私生活で婿養子になったことから山本丈晴になりました。

養子・古賀通人


古賀政男は山本丈晴以外にももう一人、養子をとっていました。
古賀プロダクションの社長で古賀政男記念館の名誉館長をも務めていました。
どのような経緯で養子縁組をしたかまでは情報がなく、調べることが出来ませんでした。

養子・菅原都々子


紅白歌合戦の第1回の出場者でもある菅原都々子は一時期、古賀政男の養女になっていました。
9歳だった菅原都々子が上京するとオペラ歌手を辞めて故郷・青森で新聞記者をしていた父の勧めもあり、古賀政男の養女になります。

当時は泣いて拒んだ菅原都々子でしたが、古賀政男の意向も強かったこともあり、菅原家としても拒み切れませんでした。
養父と養女の距離はなかなか縮まらず、離れていくばかりでした。
ある日、菅原都々子は古賀政男の元から家出し、恩師に救いを求めます。
それでも古賀政男は手元に置きたいと願っていましたが、菅原都々子の心身は限界に達していました。
その後、菅原都々子の父親が土下座をして頼み込み、養子関係は解消されました。

木枯正人ってどんなふうに描かれるの?

第7・8週

裕一が専属作曲家として契約するコロンブスレコードに初出勤すると同期の新人作曲家として木枯正人を紹介します。
大御所作曲家の取り巻きにも臆することなく接する木枯に裕一はオロオロしてしまいます。
2人ともプロデューサーの廿日市に作曲したものを提出してもしても不採用の時期が続きます。
裕一は21曲、木枯は19曲連続の不採用でした。
しかし先に採用を勝ち取ったのは木枯の方でした。
それでも納得のいく採用の仕方ではなかった木枯は、裕一をカフェーに誘います。
この当時のカフェーはいわゆる風俗のようなところでした。
木枯は「大衆に向けた歌を作るには、大衆を知らないと」と取材も兼ねていたのです。
女給の前で木枯がギターを片手に弾き語りを始めると、心を打つメロディーに裕一も聞き入ってしまいます。

まんちゃん
まんちゃん
カフェーに行ったことが、古山家では夫婦喧嘩の種になっちゃうんだって!
ぷくちゃん
ぷくちゃん
音が怒る姿が想像つくかも…

木枯はどんどん人気作曲家への道を歩み始めました。
大衆曲をメインに作曲する木枯に対して、裕一はどうしても西洋音楽の殻を破れずにいました。
そんな中、木枯の曲に合わせて歌う山藤太郎と出会います。
山藤太郎は慶應義塾大学出身のエリートでした。
当時、慶應のライバルである早稲田大学の応援歌の作曲に取り組んでいた裕一の楽譜を見て、慶應の応援歌を指導したのは自分だと明かします。
悩みに悩んで応援歌を完成させますが、木枯はスランプに陥っている裕一をずっと心配してくれていました。
裕一はずっと自分ばかり見て音楽を作っていた、と自分を恥じます。
木枯は誰かを思い浮かべて音楽を作ったら?とアドバイスをくれるのでした。

第9~11週

裕一は早稲田大学の応援歌を完成させ、木枯からも「最高!」と声をかけられます。
そしてお祝いさせて、とまたカフェーに誘われます。
断る裕一でしたが、結局またカフェーに来てしまいました。

そのカフェーの女給をめぐって、裕一の幼馴染・鉄男も上京してきます。
鉄男が上京したことで、裕一との共同デビュー曲も発売することが出来ました。
木枯も交えて飲みに出かけ、お互いを認め合い、出会いに喜んでいました。
しかし木枯はその場でコロンブスレコードからライバル会社のテイコクレコードに移籍することを伝えます。
どんどん先を行く木枯に裕一は落ち込みますが、鉄男は自分の詞を見てもらいたいと頼みます。
快諾する木枯に鉄男は喜ぶと、ますます裕一は落ち込んでしまいます。

木枯は地元・福岡から飛び出してきてしまった為、友達も家族もいません。
そんな木枯にとって裕一と鉄男の関係は羨ましく見えていました。
裕一は木枯のことを友達だと伝えるともに、テイコクレコードに行ってもまた会いたいと伝えました。
木枯は裕一のそんな言葉を照れくさそうに受け入れます。

そして木枯は自分のヒット曲を作詞した高梨一太郎を裕一と引き合わせてくれました。
高梨の方から裕一を気に入り、自分の詞に曲をつけてほしいと声をかけてくれたのです!
木枯のためにも、と裕一は意気込みます。
この時に出来た「船頭可愛や」は後に裕一初のヒット曲となります。

木枯が移籍したり、裕一がヒット曲を出してからも2人の関係は変わらずにいました。
よきライバル、友達として裕一の悩み相談にも乗ってくれる仲となります。

まんちゃん
まんちゃん
裕一、良い同期と出会えたね!
ぷくちゃん
ぷくちゃん
裕一は周りの人に恵まれているね!

最後に・・・

古関裕而さんと関係の深い古賀政男さんについて調べてみましたが、いかがでしょうか?
名作曲家として有名な古賀政男さんですが、幼い頃のうまくいかなかった家族関係が大人になっても引きずってしまうような意外な人物でした。
国民栄誉賞など華々しい功績の一方で、人知れず人間関係に悩んでいたのかもしれません。
歌謡曲の世界では、古関裕而さんより有名と感じるほどの古賀政男さんですが、エールの中でどのように描かれるのかも注目です!