史実と実在モデル

山田耕筰(エール志村けんのモデル)は波乱万丈!改名話が面白い!

2020年度前期のNHKの連続テレビ小説「エール」

コメディアンの志村けんさんが出演されていることでも話題の「エール」。
志村けんさんの出演は極秘でサプライズでの発表予定でしたが、新型コロナウイルスの影響で、想像もしていなかった形での発表になりました。

そんな志村けんさんが演じている小山田耕三は作曲家の山田耕筰であることでも知られています。

まんちゃん
まんちゃん
どんな気持ちで小山田を見ていいのか、複雑だよ…
ぷくちゃん
ぷくちゃん
本当に複雑だね…

今回はエールに出てくる「小山田耕三」とその実在モデルである「山田耕筰」について詳しく紹介します♪

実在モデル・山田耕筰とは?

名前:山田耕筰(やまだこうさく)
別名:山田耕作(やまだこうさく)
生年月日:1886年6月9日
出身:東京府東京市本郷(現・東京都文京区)
職業:作曲家・指揮者

経歴

・明治19年 東京府東京市本郷(現在の東京都文京区)に生まれる
・明治32年 岡山の養忠学校へ入学
・明治33年 関西学院中学部に転校
・明治37年 東京音楽学校予科入学
・明治41年 東京音楽学校声楽家を卒業
・明治43年 ドイツに留学
・大正3年 東京フィルハーモニー会の管弦楽部首席指揮者を任命される
・大正6年 渡米し、カーネギーホールで自作を中心にした演奏会を開く
・大正10年 文化学院音楽科主任となる
・大正13年 日本交響楽協会を設立
・昭和5年 名前を改名する(耕作→耕筰)
・昭和11年 レジオンドヌール勲章受章
大日本音楽協会副会長に就任
・昭和12年 愛女子専門学校教授に就任
・昭和15年 演奏家協会を創立、会長に就任
・昭和16年 日本音楽文化協会副会長に就任
・昭和17年 帝国芸術院会員に選出
・昭和19年 日本音楽文化協会、会長に就任
・昭和23年 脳溢血で倒れ、左半身が不自由になる
・昭和25年 日本指揮者協会、会長に就任
・昭和26年 山田耕筰賞を設立
・昭和31年 戸籍上の名前も耕筰に改める
・昭和40年 心筋梗塞のため79歳で死去

生い立ち

山田耕筰は明治19年に東京で生まれています。
山田耕筰は幼い頃から親戚・兄弟の家を転々とする生活でした。
母の兄夫婦の養子に出され、松井姓を名乗っている時期もありました。
10歳のときに父親を亡くしますが、熱心なキリスト教の伝道者であった父親の遺言でキリスト教の施設に入り、13歳までそこで学びます。

その後、姉のガントレット恒・エドワード・ガントレット夫妻に引き取られ、岡山の養忠学校(現在の岡山高等学校)へ入学します。
ちなみにこのご夫婦が日本の国際結婚の第1組目にあたります!
この頃、義兄にあたるエドワード・ガントレットから西洋音楽を学び始めます。
関西学院中学部に転校してからは、16歳のときに初めて曲を作り、ますます音楽の世界へと引き込まれます。

東京音楽学校は現在の東京芸術大学にあたり、そこではオペラ歌手の三浦環から声楽を学びました。
卒業後は別の学科に進学し、チェロと音楽理論の研究も行いました。

ドイツ留学は三菱財閥の岩崎小弥太の援助を受けて実現したもので、3年間の期間でした。
オペラ歌手としての才能を認められ、声楽家になることを勧められるほどの成績でした。
ドイツから帰国後は、資金を援助していた岩崎小弥太が東京フィルハーモニー会を結成させ、山田耕筰は管弦楽部首席指揮者を任命されたものの、山田耕筰自身の女性問題で岩崎小弥太が激怒し、東京フィルハーモニーはわずか1年で解散させられてしまいます。

まんちゃん
まんちゃん
いったい何をしたの…

しかし、数年後には渡米し、アメリカ・カーネギーホールでの演奏会の成功もあり、日本でも音楽家としての地位を確立します。

ぷくちゃん
ぷくちゃん
X-JAPANのYOSHIKIさんもソロコンサートをしたところだね!

現在のNHK交響楽団の前身進である日本交響楽協会を設立しますが、不明朗な会計を理由に内紛がおきてしまい、山田耕筰をはじめとする一派は追放されてしまいます。
その後、多額の借金を背負った山田耕筰は茅ヶ崎に移住して再起を目指すこととなります。
この茅ヶ崎での移住生活をしていた頃に童謡の名曲が数多く生まれ、「赤とんぼ」もそのうちの1曲です。

昭和6年以降はフランス・ソビエト政府から作曲家や指揮者として招待演奏を依頼されることが多く、現地でオペラを完成させることもあるほどでした。
フランス政府からはナポレオンによって制定された名誉の証であるレジオンドヌール勲章を受章しました。

まんちゃん
まんちゃん
なんだか激動の人生だね!?
ぷくちゃん
ぷくちゃん
想像する「童謡」の巨匠ってイメージだけじゃないんだね!

改名エピソード

山田耕筰は、もともとは山田耕作として活動していました。
しかし昭和5年に突如、耕作から耕筰へ改名します。
戸籍上はその後20年以上そのままでしたが、この改名にはエピソードがありました。

これは当時、山田耕作という同姓同名の人が全国に100人以上もおり、人物の特定が出来ないというものでした。
さらに山田耕筰が指揮をする後ろ姿を見て、髪の毛の乱れを指摘してきた人物がいました。
カツラをつけろと言うほどだったので、相当なものだったのでしょう。
しかし、カツラが気に入らない山田耕筰は丸坊主にしましたが、その姿も自身は気に入らず、名前に毛毛(=ケケ)を増やし、竹かんむりをつけたとも言われています

まんちゃん
まんちゃん
確かに指揮者の後ろ姿は気になる!
ぷくちゃん
ぷくちゃん
でもそれを指摘できる人ってスゴい!

山田耕筰の代表曲

ここで山田耕筰の代表曲をご紹介します。
山田耕筰は歌曲から軍歌、童謡まで幅広い音楽を手掛けていました。
どのメロディーも日本語の言葉のアクセントを生かして、言葉が自然に美しく歌われるような工夫が施されています。
詩人・北原白秋の詩に曲をつけることも多かったので、より言葉を大切に扱ったメロディーになっていたのでしょうね。

野薔薇

からたちの花

この道

待ちぼうけ

他にもオペラや交響曲や吹奏楽のための曲なども多く手掛けています。
音楽の教科書で名前を知っているという人も多いのではないでしょうか。
本場の西洋音楽を勉強していた方なのに、これほど国民に身近な曲まで手掛けるなんて、レパートリーが広い方ですね!

家族について

父・謙造 母・ひさ

山田耕筰は父・謙造と母・ひさの間に4人兄弟の末っ子として誕生しました。
謙造は板倉藩御殿医の息子で、自身も医師をしていました。
熱心なキリスト教信者で布教活動も行っていました。

ひさは、もともと父親が板倉藩の目付をしていて、母親も藩主のお姫様のお相手をするほど身分が高い家でした。
その縁で同じ藩だった加藤家にひさは一度嫁ぎますが、死別してしまい謙造と再婚します。

婚約者・ドロテア・シュミット

ドイツに留学していたときの下宿先の娘とは婚約を交わしていました。
当時、留学前に村上菊尾(後の妻)とも婚約を交わしている状態でしたが、3年間の留学のうちに心変わりしてしまったようです。

妻① 永井郁子

ドイツ留学のときに資金援助を受けた岩崎小弥太の勧めもあり、大正4年に声楽家の永井郁子と結婚をします。
容姿も美しく、歌手としても清楚な趣のあるソプラノの高音が美しいと評判な女性でした。

妻② 村上菊尾

村上菊尾とは、明治43年のドイツ留学の前に婚約を交わしていました。
村上菊尾は山田耕筰より6歳年下ですが、幼馴染にあたり、家柄もとてもよい女性です。
他の女性と婚約・結婚をした山田耕筰でしたが、村上菊尾のことが忘れられず、永井郁子と離婚してから大正5年に結婚しました。

妻③ 辻輝子

昭和31年にはそれまで山田耕筰を理解し、尽くしてきた村上菊尾と離婚し、声楽家の辻輝子と再婚します。
辻輝子は山田耕筰の弟子であり、山田耕筰が手掛けたオペラなどを歌って活躍し続けました。

山田耕筰は辻輝子のことを母に似た良い妻と語っており、陽気なのに細かな心遣いも出来て、山田耕筰が半身不随になってからの苦難をも、ものともしないところをとても評価していました。

娘 美沙・日沙・浩子  息子 耕嗣

山田耕筰には調べられる範囲で4人の子供がいました。
日沙さんと耕嗣さんは新聞でインタビューに答えている記事がありましたが、美沙さんの記事は見当たりませんでした。
美沙さんが生まれた年にピアノの練習曲として有名なソナチネを完成させました。


ソナチネは山田耕筰が子供たちの教育の一環に、という思いがこめられた曲という見方が強く、完成させた時期を考えると長女である美沙さんに音楽をやってもらいたい気持ちが込められているように感じます。

また2019年に山田耕筰と北原白秋の友情を描いた映画「この道」で山田耕筰役を演じたえぐざEXILEのAKIRAさんに向けて浩子さんからメッセージが届くというサプライズもありました。
メッセージを受け取ったAKIRAさんも親族に受け入れてもらえて安堵した気持ちをイベントで語っていました。

まんちゃん
まんちゃん
女性関係が激しすぎない!?
ぷくちゃん
ぷくちゃん
公になっていないだけで、他にもまだまだありそう…

山田耕筰ってどんなふうに描かれるの?

志村けんさんが出演したのは第5週の「愛の狂騒曲」、5月1日でした!
第5週では、豊橋で、音も出演して裕一の演奏会が開かれます。この演奏会は大成功。新聞にも掲載され、それは思わぬ人の目にとまることに・・・。
裕一の知らないところで、小山田が演奏会の成功を知ることになるのです。
その後第8週「紺碧の空」の月曜日にも出演予定です!


音楽の才能を持ち、国際的な作曲コンクールにも入賞したのに、家庭の事情で音楽への道をあきらめそうになっていた裕一。裕一に音楽を続けてもらおうと、音はいくつかのレコード会社に裕一を売り込みに訪ねていきます。
その中で、コロンブスレコードが裕一と専属契約をしてくれることに。その陰には、大御所の作曲家である小山田耕三の推薦があったことを、翌年、裕一と音は知ることになります。

裕一がコロンブスレコードと契約した翌年の秋。
裕一の曲はなかなか採用されず、レコードになることはありません。契約料を半額にされそうになり、音はコロンブスレコードの廿日市のもとに交渉に乗り込みます。
廿日市は、ちょうど小山田を見送っているところでした。
古山の家内でございます、と、小山田とは気づかずにあいさつする音に、小山田はかすかに反応します。

音と二人になると、廿日市は言います。裕一の音楽は、西洋音楽のこざかしい知識をひけらかして、大衆の好みに合うものではない。どうして小山田先生が、裕一を雇うように推薦したのかがわからない、と。
前の年、音が売り込みに来たあと、小山田が裕一を推薦していたのでした。

「と、言うことは、廿日市さんは、小山田先生を軽く見ているということですね?先生の紹介で契約した主人を、ぞんざいに扱うなんて・・・。」
小山田の後を追おうとする音を、廿日市は必死で引き止めます。こうして、契約料を半額にすることは避けられました。
家に帰った音から、契約の陰に小山田の推薦があったことを聞いた裕一は、感激のあまり言葉もありません。

裕一の作曲方法は、ほとんど独学で身に着けたものでした。そんな裕一が頼りにしていたのは、小山田耕三の本。小学生のときに、父・三郎が五線紙とともに裕一に買ってくれた「作曲入門」でした。
そのため、裕一にとって、小山田はあこがれの存在でもありました。


翌日、会社のサロンで小山田と出会った裕一は、勇気を振り絞って小山田に話しかけます。
「こ、古山裕一です!わ、わたしは、先生の本で音楽の勉強を・・・。い、いつか、先生のように、西洋音楽の青レーベルでも曲を書かせてもらえるよう、がんばります!」
「・・・古山君は、流行歌の赤レーベルではどんな曲を出したのかね?」
「・・・じ、実はまだ採用にはならず・・・。」
沈黙が流れます。
このあと、裕一はろくに睡眠もとらずに作曲を続けますが、焦れば焦るほど良い曲が作れなくなってしまいます。

そんな中、早稲田大学の応援歌の作曲を依頼されたのに、自分の音楽にこだわって応援歌が作れない裕一。自分の才能を証明するため、裕一は三日三晩徹夜で交響曲「反逆の詩」を書き上げます。
裕一は小山田の自宅を訪ね、その交響曲を小山田に見てもらいます。緊張して小山田の反応を待つ裕一。小山田はふっと笑ったあと、「で?」と言って黙ってしまいます。
頭が真っ白になり、何も答えられない裕一を残して、小山田は書斎から出て行ってしまいます。
その後、自分の曲作りに足りないものー周りの人のことを想う心ーに気がついた裕一は、みごとに早稲田大学の応援歌「紺碧の空」を完成させます。

プロの作曲家としてようやくデビューした裕一。それからしばらく経ったころ、裕一が作曲した「船頭可愛や」をオペラ歌手の双浦環が気に入り、レコードにしたいと申し出ます。
裕一はコロンブスレコードで流行歌担当の赤レーベルと契約していますが、オペラ歌手の環が歌うとなれば、西洋音楽を扱う青レーベルからレコードを出すのが筋というもの。
これに、コロンブスレコードの専務や社長が難色を示します。
「青レーベルの重鎮である小山田先生が、何と言うかねえ・・・。」

案の定、小山田は双浦環が「船頭可愛や」を歌うことを認めません。環は小山田の自宅を訪ね、直談判に及びます。
小山田は言います。
「流行歌である赤レーベルの新人作曲家が、西洋音楽の青レーベルの歌手に曲を書くなどありえない。身の丈というものがある。」
小山田は、自分の立場を脅かす若い才能に恐れを抱いているーそのことに気がついた環は、小山田に尋ねます。
「なぜ、先生は、西洋音楽で評価を受けていた古山さんを、わざわざ赤レーベルに推薦したのですか?」
そして、こうきっぱりと言い切ります。
「先生に反対されても、私は歌います。」

廿日市も、小山田の意向に逆らうことを初めは嫌がりましたが、腹を決めてレコードを出すことにします。
環の歌う「船頭可愛や」は、発売されるとすぐ、大ヒット曲になりました。

まんちゃん
まんちゃん
けっこうシリアスな役なんだね!
ぷくちゃん
ぷくちゃん
どんな志村さんが見られるんだろう?楽しみ!

最後に・・・

志村けんさんの遺作となった「エール」で志村けんさんが演じた小山田耕三の実在モデルである山田耕筰について調べてみましたが、いかがでしたでしょうか?
私は山田耕筰と言えば、童謡を作曲した人として教科書で見たイメージだったのですが、西洋音楽をきちんと学び、童謡だけではなく幅広いジャンルの作曲をしていたことに驚きました!
そして調べれば調べるほど出てくる女性関係にも驚いてしまいました…
エールではプライベートなことまでは描かれないかと思いますが、こういう背景を持っている人だと思って見ると、イメージが変わるかもしれません。
志村けんさんも全ての撮影は終了していなかったとのことなので、エールで山田耕筰が描かれるのもあと数回だと思います。
じっくりと味わって見ていきましょう。