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まんぷく立花萬平(まんぺい)役は長谷川博己!実在モデルがすごい!

NHK連続テレビ小説第99作目「まんぷく」。今回、私がまんぷくで注目したのが立花萬平(たちばなまんぺい)役の長谷川博己さん。

実は、長谷川さんは20代の頃に、何度もこの朝ドラのオーディションを受けて、落ち続けていました。なので、今回は念願の朝ドラ出演で喜ばれていました。

現在は色んな作品に出演していますが、私が長谷川さんを初めて見た作品は、NHKドラマ「セカンド・バージン」でした。

まんちゃん
まんちゃん
あの時は初めて聞く名前だったけど…
ぷくちゃん
ぷくちゃん
何て色気のある俳優さんだとびっくり!

長谷川博己さんは今回初めての朝ドラ出演です。今までどんな俳優人生を送ってきたのかプロフィールや出演作品などを詳しくご紹介します♪

【長谷川博己のプロフィール♪】

名前:長谷川博己(はせがわひろき)

本名:長谷川博己(はせがわひろき)

誕生日:1977年3月7日

血液型:A型

出身地:東京都

身長:182cm

所属事務所:ヒラタオフィス

長谷川博己が芸能界に入ったきっかけは?

何と大学生時代までは、本格的に演技をしたことはありませんでした。

就職活動中に演劇をしている友人に代役を頼まれたことがきっかけで、役者の道に進むことを決め、大学卒業後に、劇団「文学座」の研究所に入りました。

まんちゃん
まんちゃん
意外なきっかけだなあ
ぷくちゃん
ぷくちゃん
文学座で演技力を磨いたんだね

長谷川博己の代表作を紹介

ここで長谷川博己さんの代表作を紹介します。

セカンド・バージン

長谷川さんが最初に注目を浴びたのが「セカンド・バージン」このドラマ。

鈴木京香さん演じるヒロインと不倫関係に落ちてしまう17歳年下の男性役で、女性たちからの支持を集めました。

ドラマは大ヒットして、翌年には映画化されました。

まんちゃん
まんちゃん
この時の長谷川さんの妻役は深田恭子さん!
ぷくちゃん
ぷくちゃん
豪華なキャストだったんだね

MOZU

西島秀俊さん、香川照之さん、真木よう子さんらが出演したサスペンスドラマ「MOZU」。

長谷川さんは、数々の犯罪に手を染める犯罪エージェント役で狂気じみた演技を見せました。

まんちゃん
まんちゃん
去り際にチャオ!と言ってたんだよね
ぷくちゃん
ぷくちゃん
あれは衝撃だった!

家政婦のミタ

松嶋菜々子さん主演の最高視聴率40パーセントを記録した、大ヒットドラマ「家政婦のミタ」。

長谷川さんが演じたのは妻を亡くし、4人の子供を抱えて悩む、ちょっと情けないお父さんでした。

まんちゃん
まんちゃん
子供の言動にオロオロしていた姿が印象的だったね
ぷくちゃん
ぷくちゃん
あの情けなさも、見事にはまってたのがスゴイ

長谷川博己の演技の評価まとめ!

次は演技の評価を紹介します。ここでは下手な意見と上手な意見をまとめてみました。

下手な意見

まんちゃん
まんちゃん
確かに「小さな巨人」は違和感があったけど…
ぷくちゃん
ぷくちゃん
そういう演出だったとか?

上手な意見

まんちゃん
まんちゃん
やっぱりうまいって声の方が多いよね!
ぷくちゃん
ぷくちゃん
演技の幅が広いってことかな♪

長谷川さんの演技については、やはり、上手との声の方が圧倒的に多いです。引き込まれるような魅力も感じますね。まんぷくでの演技にも注目です!

長谷川博己が演じる立花萬平(たちばなまんぺい)ってどんな役?


ヒロインの夫・萬平は、次々と事業を手掛けては失敗してしまう実業家です。

それでも諦めずに、やがては世界初のインスタントラーメン開発に夫婦で挑んでいくのです。

事業のためには生活を後回しにする夫役なんて、女性から見たら敵なんでしょうが、長谷川さんが演じると、さらに女性ファンが増えそうですね

まんちゃん
まんちゃん
失敗に失敗を重ねながらも、諦めない姿勢はカッコイイね
ぷくちゃん
ぷくちゃん
どうやってピンチを切り抜けていくのかも、見どころだね

物語を盛り上げてくれるキャラクター役柄であることは間違いないでしょう。

実在モデルがすごい!

今回、長谷川博己さんが演じる立花万平の実在モデルは日清食品の創設者「安藤百福さん」です。この安藤百福さんがどれだけすごい人なのかを詳しくご紹介します。

1910年3月5日:当時植民地だった台湾で安藤百福さんが誕生します。

安藤百福さんは生まれつき耳が大きかったことから「みんなの声をよく聞き、世の中の役に立つことをして、たくさんの福を運んでくるように」という思いを込められて「安藤百福」と名付けられました。

そんな両親は病気になり安藤百福さんが小さいうちに亡くなってしまいました。

まんちゃん
まんちゃん
安藤百福さんは日本生まれかと思ってたら台湾生まれだったんだね!
ぷくちゃん
ぷくちゃん
全然知らなかったよ!

1924年14歳:高等小学校を卒業し、おじいさんの経営する繊維業を手伝います。

安藤百福さんはイキイキと働いている人たちを見によく工場に出入りしていました。この時、おじいさんに「一生懸命仕事をすればお客さんに信用してもらえるから楽しく商売が出来るんだよ。」と教えてもらいます。

1930年20歳:安藤百福さんは本が好きだったことから知人の進めで「図書館の司書」になります。

しかし、”本を読むのも大切だがやっぱり僕は大勢の人に囲まれて商売するほうが好きだな”と思い2年で辞めてしまいます。

まんちゃん
まんちゃん
私の20歳とは大違い(笑)
ぷくちゃん
ぷくちゃん
この時からすでに商売が好きだなんておじいちゃんの影響だったんだろうね♪

 

1932年22歳:「東洋莫大小(めりやす)」を作り、独立します。

安藤百福さんはメリヤス(よく伸び縮みする布で肌触りがいい)を使って靴下や肌着などお客さんに喜ばれる商品をどんどん作ります。

この時に心掛けたのが「取引は腹八分目。満腹になるまでお客さんから取りすぎるとお客さんに負担を掛け過ぎてしまう。だから少し儲けが少なくなっても”お互いが気持ちよく付き合えるのが商売の基本”」

そう言ってメリヤスの仕事は大成功しました。

まんちゃん
まんちゃん
腹八分目なんてなかなか考えられないような気がする
ぷくちゃん
ぷくちゃん
でもそこでそうしたからこそ安藤百福さんは大成功したんだろうね♪

1933年23歳:台湾から繊維産業の盛んだった大阪に進出。「日東商会」を設立します。

大阪でも安藤百福さんは大成功。常に商品が足りないほどの人気でした。
そこで安藤百福さんは日本一のメリヤスの製造業者「丸松」と取引をしようと言いだしますが、社員たちは「こんな小さな会社と取引してくれる訳がない!」と否定します。

しかし丸松に行くと安藤百福さんは熱弁!丸松はその思いを買ってくれ取引を開始することになりました。

まんちゃん
まんちゃん
誰もが否定するところに行くのがすごいね!
ぷくちゃん
ぷくちゃん
その情熱が伝わったからこそ取引開始してくれたんだろうね♪

1938年28歳:国家総動員法により、メリヤスの貿易ができなくなります。

国家総動員法が施行され、あらゆる物資が統制される世になっていました。安藤百福さんが扱っていたメリヤスも例外ではなく、仕入れが滞るようになっていました。

そのとき唯一景気が良かったのが「軍需関連の産業」

そこで安藤百福さんが思いついたのが軍需工場の工員教育に用いるための「幻灯機の製造」でした。

元々工場で働いていた若い男性の工員は招集されてしまったため、工場には学徒動員で集められた女学生などの素人工員が増えていました。機械の扱いも知らない者ばかりだったので、各工場では講師や技師が新人工員を集めて機器の扱い方を教えました。

その時に幻灯機を使って、大きなスクリーンに大きく投影した写真を見せながら説明していたのですが圧倒的に数が不足。

軍需関連の仕事であれば資材も優先的に回してもらえ、その後軍との関係も良くなり、さらに軍需関連の仕事をこなしていきました。

 

1941年31歳:太平洋戦争が始まり、仁子さんに出会う。

安藤百福さんは戦時中、知人に大阪倶楽部の受付で働いている女性と結婚する気はないか?と尋ねられます。
(※大阪倶楽部とは大阪の実業家たちが会員になり、互いの交流を深めるための名門の社交クラブです。)

 

安藤百福さんはひと目で仁子さん(安藤サクラ)を好きになりアタックしますが、仁子さんに「こんな時代なのでみんな祝福されないので結婚する気はない」と断られてしまいます。

でもそこで諦めないのが安藤百福さん。何通も何通もラブレターを送り続けます。

再度会った時に仁子さんと安藤百福さんはこんな会話をします。

仁子「戦争をすることが日本のためになると言われていたのに状況は悪くなっていくばかり。一体世の中はどうなるのでしょう?」

百福「違いますよ。世の中がどうなるかって心配ばかりするのは間違っています。自分でどうするかが大切なんです。」

仁子「強いんですね」

百福「強くなるんです」

この会話をきっかけに仁子さんは安藤百福さんとの結婚を決めました。

まんちゃん
まんちゃん
仕事にだけ熱心っていうわけじゃなくて何にでも情熱を全力で注ぐ人だったんだね(笑)
ぷくちゃん
ぷくちゃん
それに「自分でどうするかが大切」って今の私にでも響くくらいすごい一言だよね!

仕事に一生懸命打ち込んできた安藤百福さんでしたが、空襲から逃れるために兵庫県の南西部に移り住みました。

そこで始めたのが「炭作り」。安藤百福さんは”戦争で物が足りない今、どの家でも燃料が必要になってくるのでは?”と思い山を買って炭作りを始めたのです。

 

1946年36歳:終戦後、大阪梅田の闇市でラーメン屋台に並ぶ行列を見ます。

安藤百福さんは戦後の厳しい中、1杯のラーメン(当時の支那そば・南京そば)が笑顔をもたらすことに感動します。そこで「人間にとって食べることがいちばん大切なんだ」ということを再認識します。

同年、安藤百福さんは大阪府泉大津市で100人以上の若者を集め、製塩業を始めます。しかしここでできた塩は売るのではなく、近所に配るだけ。戦争が終わってどうしたらいいのかわからない若者に希望を持ってもらいたい!と父親代わりになっていたのです。

1948年38歳:大阪府泉大津市で「中交総社(のちの日清食品)」を設立し翌年、「中交総社」から社名を「サンシー殖産」に変更します。

1949年39歳:GHQに疑われ、拘置所に入れられます。

安藤百福さんはいきなり「脱税」の容疑でGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)に逮捕され裁判では「重労働4年」という判決が下されてしまいました。その理由は塩田の若者たちに渡していたお小遣いが給与とみなされ、税金を払ってないものとされたからです。

しかし、安藤百福さんにとっては全くの濡れ衣でこれは一種の見せしめで、税金を払ってない人たちに対して「これからは厳しく取り締まるぞ」という脅しだったのです。そこで安藤百福さんは「悪いことなどしていないのに納得がいかない」と弁護士を立てて税務当局を訴え、徹底的に戦うことにしました。

アメリカ軍が管理する「巣鴨プリズン(東京拘置所)」での生活は塀の外にいるよりいい生活で重労働など一切なく、食事はアメリカ兵と平等、タバコも配給されるのでそのタバコを賭けて麻雀や花札で博打が行われているくらいでした。

そうするうちに税務当局の役人が「訴えを取り下げてもらえないか。そうしたらすぐに自由の身にしてもいい」と言われます。このまま裁判を続けていれば安藤百福さんの無実は明らかになり、自分たちが不利になるとわかっていたからです。そのため安藤百福さんは首を縦には振りませんでした。

しかし、2年ほど経った頃それまで毎月面会に来てくれていた仁子さんが初めて子どもたちを面会に連れてきました。息子の宏基くんは3歳、娘の明美は1歳半になっていました。

そこで仁子さんに「訴えを取り下げてください。」と仁子さんに泣いて頼まれても「裁判が終わるまでは辛抱してくれ」と言い続けてきた百福さんもさすがにこれには堪え、訴えを取り下げ、出所することにしました。

晴れて自由の身になったものの、大阪の家や製塩所は立ち退きになってしまい若者たちは散り散りになっていました。それでもまだそれなりのものが残っていた安藤家は再起し、事業を進めました。

1951年41歳;信用組合の理事長に就任します。

当時事業で成功していた安藤百福さんを理事長にして世間の信用を得たいという信用組合に無理を言われ、渋々理事長に就任します。

1957年47歳:信用組合が倒産し、財産を全て没収されました。

安藤百福さんの不安は的中。信用組合は倒産。名前を貸しただけと言えども経営のトップは安藤百福さんだったので責任を取らされて、財産を全て没収されてしまいました。

幸い、自宅は借家だったので済むところだけは失わずに済みました。

まんちゃん
まんちゃん
せっかく今まで頑張ってきたことをこんなことで一瞬で奪われるなんて最悪。
ぷくちゃん
ぷくちゃん
でもここできっと諦めないのが百福さんなんだろうね♪

 

1957年47歳:チキンラーメンの開発に取り掛かります。

安藤百福さんは全て財産を取られてもめげず、「そうだ、ここで負けてたまるか。失敗した分、経験が血や肉となって身についたと思えばいいんだ!私には元気な身体があるし、大切な家族もいる。今までだって何度も挫折や失敗があった。また一からやり直せばいいんだ!」新しい事業のためにと家の敷地内に研究所を作ります。その新しい事業というのが終戦後闇市でラーメンを食べているのを見て思いついた「店も屋台も要らない。お湯だけで食べられる手軽なラーメン作り」です!

いくら料理ができると言っても、ラーメン作りについて全く知識がなかったためそう簡単に作ることは出来ませんでした。結果、麺を完成させるまでに1年近くかかりました。

このときの発見を安藤百福さんは「結局食品はバランスだということがわかった。食品の開発はたった一つしかない絶妙なバランスを発見するまでこれでもかと追求し続ける仕事なのである」と語りました。

 

1958年48歳:チキンラーメン完成。

ラーメン作りの最後の課題はラーメンの乾燥方法でした。生麺ではすぐにカビが生えたり、腐ってしまう。それをどうしたらいいか悩んでいた時に仁子さんは思いがけず、ヒントをあげることになりました。それは夕飯のおかずの「天ぷら」です。

その様子を見ていた夫は「そうかこれだ!この方法を使えば即席ラーメンが出来るぞ」と大喜び。これが今や世界で年間1億食以上食べられている即席ラーメンの原理を発見した瞬間でした。

それからは家族総出で即席ラーメン作りスタート!遊びたい盛りの子どもたちは文句も言わず、手伝いました。百福さんはモダンなところがあり、セリフの端々に英語を使うのが好きでした。家族に仕事を頼む時に鶏のスープとは言わず「チキンスープの元は出来たか」や「チキン運んでくれ」など「チキンチキン」いうので家族も「チキン」というようになり即席ラーメンの名前が「チキンラーメン」になりました♪

 

8月25日にチキンラーメンの販売を開始。お湯を注ぐだけで食べられるなんて「魔法のラーメン」と言われおいしさと手軽さから大ヒット商品になり、またたく間に日本中で食べられるようになりました。この頃から製塩所のときの若者が少しずつ手伝いをしてくれるようになりました。

まんちゃん
まんちゃん
魔法のラーメンって言われて売れたのはすごく嬉しかっただろうね♪
ぷくちゃん
ぷくちゃん
無一文からここまでやる百福さんはやっぱりすごいね!

この噂はアメリカにまで届き、サンプルを送ったところ、先方からすぐに500ケース送ってほしいという連絡が入りました。当時は工場もなく、小さな研究所では作業が追いつかなくなり1958年の夏頃になると予算100万円(現在の約2000万円)をかけて工場を建設し始めます。

 

12月に「サンシー殖産」から社名を今現在の「日清食品」に変更します。

日清食品の由来は「日々清らかに豊かな味をつくる」という意味です。チキンラーメンには追い風が吹き続けます。食べた人々の間で「精力がつく」「肌艶が良くなった」など噂が広がったのです。またこの噂は真実でした。

鶏をまるごと圧力釜で煮詰めたスープには様々な栄養が抽出されており、詳しい検査期間に分析を依頼すると自分の予想以上に様々な栄養分が多量に含まれていることがわかったのです。

当時、日本国民は健康への関心が薄く、栄養バランスが相対的に悪かったのです。そこで厚生省は分析により栄養価の高さが証明されたチキンラーメンを「妊婦の健康食品」として推奨するようになり、知名度はさらに高まりました。

1962年52歳:「味付け乾燥麺の製法」と「即席ラーメンの製造法」の特許を取得します。

安藤百福さんは特許を取得したものの61社もの会社と契約し、特許を利用させるようにしました。こうしたことにより各地の人々の風土や好みに合わせ、それぞれの地域でもっと美味しく食べられるインスタントラーメンが次から次へと開発され、インスタントラーメン業界は一気に発展していきました。

日清食品の売上は1964年になると43億3千万円に達しました。世間からは「大企業」「一流企業」と認められるようになりました。

1966年56歳:海外進出をするために、アメリカとヨーロッパを視察に行きます。

この時、視察先でチキンラーメンを食べてもらおうとしますが、海外にはどんぶりがないことに気づきます。そのとき、代用されたのが「紙コップ」でした。

まんちゃん
まんちゃん
この海外視察がカップヌードルを作るようになったきっかけだったんだね!
ぷくちゃん
ぷくちゃん
たしかに外国にどんぶりってない気がする。

1969年59歳:視察でヒントを得た安藤百福さんは海外進出するためにカップヌードルの開発に取り掛かります。

今までのチキンラーメンとは発想を変え、「はじめから容器に入っているインスタントラーメン。」
①麺を包む包装材料であり
②お湯を入れれば調理器具になり、
③食べるときには食器になる
この3つの役割を果たすのが究極のラーメンだったのです‼

1971年61歳:カップヌードルが発売されました。

しかし当時チキンラーメンが20〜30円の時代に100円もするカップヌードルはなかなか売れません。

しかし、安藤百福さんは「カップヌードルは世界を変える!」と言ってお客様の生の声を直接聞くために11月に東京銀座の歩行者天国で「カップヌードル試食販売会」を行いました。

そこでは大盛況!!今まで全く売れなかったカップヌードルが1日で2万食を売り上げる日もあり、ニュースになるほど話題になりました。

 

1972年62歳:浅間山荘事件が発生。その時に警察の機動隊がカップヌードルを食べている映像が全国中継され、カップヌードルが爆発的に売れ始めます。

まんちゃん
まんちゃん
浅間山荘事件知ってる!よく過去のニュースで必ずって言っていいほど出てくるけどこれがヒットの火付け役だったとは・・・
ぷくちゃん
ぷくちゃん
何がきっかけで物が売れ始めるかってわからないものなんだね♪

1973年63歳:アメリカでカップヌードルの販売を開始します。

安藤百福さんの予想通りカップヌードルは世界にも受け入れられていきました。

1981年71歳:安藤百福さんは社長職を引退します。

その前年の売上が1千億円を突破して業界で盤石の地位を築いていました。そこで百福さんは宏基のほかに台湾で過ごしていた頃の奥さんとの子どもである宏寿を2代目の社長にします。(宏寿はすでに戦前から日本に引き取られており、仁子さんが我が子のように安藤家で一緒に暮らしていました)

 

しかし楽隠居するわけでもない百福さんは自分が元気なうちに後進を育てておかなければという思いから毎日出社し続けます。引退しても会社の経営に口を出す父にイラ立ち宏寿は2年後に社長を退任してしまいます。そして百福さんがまた社長に復帰しました。

1985年75歳:再び社長退任。会長職に退きます。

次は仁子さんの実子である次男「宏基」が3代目社長に就任します。だがこの2人は似ているところがあり、強い意志同士がぶつかって争いが絶えませんでした。時には自宅に呼びだされ説教されることも多々。しかし、宏基も黙っておらず、反論。壮絶な親子喧嘩は続きました。

 

1995年85歳:阪神・淡路大震災の被災地にインスタントラーメンを届けるために「キッチンカーのチキンラーメン号」を用意し、緊急支援をしました。

安藤百福さんは各地の避難所を連日休まず回り、15000食ものインスタントラーメンを配給しました。

1999年89歳:大阪府池田市に「インスタントラーメン発明記念館」を作ります。

2005年95歳:宇宙飛行士の野口聡一さんに宇宙でもカップヌードルが食べたいとお願いされ、世界初の宇宙食ラーメン「スペース・ラム」が開発される。

安藤百福さんは国も人種も違う人達が同じ宇宙空間でラーメンを食べられるなんて夢があると言って喜びます。

2007年96歳:急性心筋梗塞で亡くなります。

安藤百福さんは自分が開発したチキンラーメンを毎日のように食べ続けました。その理由はインスタントラーメンは体に良くないかもしれないという噂を自分で健康であり続けることではねのけたはねのけたました。

 

【安藤百福の名言】

《食足世平(しょくたりてよはたいらか)》

食が足りてこそ世の中が平和になるという意味で安藤百福さんがよく書いていた言葉です。

まんぷくでの長谷川博己さんに期待!

いかがでしたでしょうか?

まんぷくでの役柄は少年のような好奇心と人間味のあふれる魅力的な人物です。クールで知性的なイメージのある長谷川さんが、どんな風に見せてくれるのか、今からワクワクしますね!