エール

エール実在モデル│露営の歌の歌詞や実話のエピソードについても!

NHK連続テレビ小説第102作目「エール」。
新型コロナウイルス感染症の影響で、撮影・放送が中断されていましたが、ようやく再開、後半の物語がスタートしました!
物語後半では、日本が戦争に向かっていく激動の時代と、その時代の波にいやおうなく飲み込まれていく裕一たちの様子が描かれます。
そこで今回、私がエールで注目したのが、裕一が作曲した戦時歌謡の「露営の歌」です。

まんちゃん
まんちゃん
いわゆる「軍歌」だよね
ぷくちゃん
ぷくちゃん
タイトルは知らなくても、耳にしたことがあるかも?

今回は裕一が作曲した「露営の歌」や実在モデルとなった曲について調べてみましたので、ご紹介します!

「露営の歌」ってどんな曲?実在モデルも紹介!

裕一が作曲することになる「露営の歌」には、実在モデルがあります。

1937(昭和12)年7月7日、日本と中国の軍が中国の盧溝橋(ろこうきょう)で衝突する盧溝橋事件が起き、これをきっかけに日中戦争が始まります。
このため、当時「東京日日新聞」と「大阪毎日新聞」に分かれていた現在の毎日新聞が、戦意を高めようと「進軍の歌」の歌詞の募集を始めました。

そのころ、古関裕而さん・金子さん夫婦は満州を旅行していました。満州にいた金子さんの兄や妹を訪ねようと、かねてから計画していた旅行でしたが、出発の直前に盧溝橋事件が起きます。
いったんは中止も考えましたがそのまま行くことにして、古関さん夫妻は7月下旬に神戸から船で満州に向かいました。

旅行を終えた二人は、大連から神戸へ向かう船で帰国の途につきます。
船内で、裕而さんはコロムビアレコードからの電報を受け取ります。急いで作曲してほしい曲があるので、神戸で船から降りずに門司まで行って、門司から特急で上京するように、という内容でした。

門司で船を降りた裕而さんは、宿泊した下関の旅館で、久しぶりに日本の新聞である東京日日新聞を広げます。そこに掲載されていたのが、「進軍の歌」の募集の結果でした。
そこで二席に入選していたのが、薮内喜一郎(やぶうちきいちろう)さんの書いた詩です。
薮内さんは奈良県出身で、当時は京都市役所に勤務していましたが、仕事の関係で満州に行って苦労した経験があったということです。

古関さん夫妻は、特急で下関から東京へと向かいました。
特急とはいえ、東京まで十時間以上かかる列車の中で、退屈を持て余した裕而さんは二席の薮内さんの詩のことを思い出し、新聞を広げます。その詩に心打たれた裕而さんは、揺れる列車の中でその詩に合わせてすらすらと作曲してしまいます。
満州旅行中に見た日露戦争の戦跡のようすも、作曲をする古関さんに強い影響を与えました。

東京についた裕而さんは、そのまま一人でコロムビアレコードへとかけつけます。担当のディレクターに、急いで作曲してほしいという曲について訪ねると、なんとそれは薮内さんの作った詩のことでした。
古関さんがすでにできている楽譜を取り出すと、まだ依頼もしていないのに曲ができていることにディレクターは驚き、大喜びします。
曲の途中、「勝ってくるぞと勇ましくーちかって」の「く」と「ち」の間に息継ぎがなく、長いフレーズを一息で歌わなくてはならないのを心配した裕而さんでしたが、この歌を歌う伊藤久男さんは「何でもない、楽に歌えるよ」と答えたということです。

「進軍の歌」の一席に選ばれた詩が「進軍の歌」のタイトルでA面に、裕而さんの作曲した二席の詩が「露営の歌」としてB面にレコーディングされ、1937年9月に発売されました。
発売後すぐにはそれほど売れなかったものの、この曲は兵士たちの心をつかみます。そして、A面の「進軍の歌」よりもB面の「露営の歌」が人気となり、出征する兵士の見送りには「露営の歌」が歌われるようになりました。
結果、この曲は60万枚以上という大ヒット曲になりました。
また、「露営の歌」の前奏のメロディーに西條八十(さいじょうやそ)さんが歌詞を書いて、「さくら進軍」という曲がその後作られています。

「露営」は、野外に、戦場で軍隊が集まる場所である陣営を作ることを言います。

京都の嵐山に、「露営の歌碑」があります。
詩を書いた薮内さんの友人に、東京日日新聞の京都支局の記者がいた縁でこの話が持ち上がり、盧溝橋事件から一年後になる1938(昭和13)年7月7日に除幕式が行われました。
文字を書いたのは、当時、陸軍支那派遣軍総司令官だった陸軍大将の松井岩根(まついいわね)さんです。松井さんは、終戦後、東京裁判で死刑判決を受けて刑死しています。

露営の歌

1937(昭和12)年
作詞 薮内喜一郎
作曲 古関裕而

勝って来るぞと 勇ましく
ちかって故郷を 出たからは
手柄たてずに 死なれよか
進軍ラッパ 聴くたびに
まぶたに浮かぶ 旗の波

土も草木も 火と燃える
果てなき荒野 踏みわけて
進む日の丸 鉄かぶと
馬のたてがみ なでながら
明日の命を 誰が知る

弾丸もタンクも 銃剣も
しばし露営の 草まくら
夢に出てきた 父上に
死んで還れと 励まされ
さめて睨むは 敵の空

思えば今日の 戦闘に
朱に染まって にっこりと
笑って死んだ 戦友が
天皇陛下 万歳と
残した声が 忘らりょか

戦争する身は かねてから
捨てる覚悟で いるものを
鳴いてくれるな 草の虫
東洋平和の ためならば
なんで命が 惜しかろう

引用サイト:Uta-Net
https://www.uta-net.com/song/93695/

第15週「先生のうた」あらすじ

1937(昭和12)年、盧溝橋事件をきっかけに、日中戦争が始まります。
戦争の足音はだんだん近づいてきていましたが、それでもまだ人々の生活を脅かすほどではありませんでした。そして、裕一たちもまだ、それまでと変わらない生活をしていました。

ある日、裕一は、新聞の募集で選ばれた「露営の歌」の歌詞を目にします。そして、一気に曲を書き上げ、コロンブスレコードに持ち込みます。
この曲は久志が歌うことになり、レコーディングされました。
この「露営の歌」は、戦争に少しずつ飲み込まれ始めていた人々の心をつかみ、大ヒット。
出征していく兵士たちを見送るときに、広く歌われるようになります。

「露営の歌」がヒットして、1年が経ったある日のこと。音の姉・吟と、その夫である智彦夫婦が古山家にやって来ます。
智彦は陸軍の軍人で、今は馬政課に所属していました。その馬政課で映画を作ることになり、主題歌の作曲を裕一に頼みたいというのです。

映画のタイトルは、「暁に祈る」裕一は、引き受けるにあたってある条件を提示します。それは、作詞家と歌手は裕一に選ばせてほしいというものでした。
作詞を鉄男が、歌唱を久志が担当することになり、「福島三羽ガラス」で取り組む曲がいよいよスタートすることになります。

ところが、陸軍のチェックは厳しく、鉄男の書いた詩はなかなか許可が下りません。
一方、音は自宅で音楽教室を開くことに。その教室に通ってきていた弘哉という少年は、自分の歌が下手なことが嫌で、教室を辞めたいと言い出します。
そんな弘哉に、裕一がハーモニカを教え、弘哉はハーモニカで教室に参加することになります。
弘哉と華もすっかり仲良くなり、家族ぐるみでも仲良くなっていきます。

鉄男の書いた詩にはまだ許可が下りません。裕一は、鉄男の詩が採用されないなら自分も作曲はやめる、と言い出します。
最後のチャンスを与えられた裕一と鉄男は、歌を作るきっかけをつかもうと福島に戻ります。
なぜか久志もやってきてにぎわう古山家に、藤堂先生と昌子、そして二人の間に生まれた息子が訪ねてきます。

藤堂先生は、出征することが決まっていました。
歌詞がなかなか書けない鉄男に、先生は、俺のことを思って歌詞を書いてみてくれないか、と頼みます。先生の思いを受け止め、鉄男は心を込めて歌詞を書きます。この歌詞がようやく認められ、「暁に祈る」はやっと世に出ることに。
そして、戦いに向かう人たちの心に寄り添った「暁に祈る」は大ヒット。
裕一の曲、鉄男の詩、久志の歌の「福島三羽ガラス」の歌が、人びとに受け止められた瞬間でした。

まんちゃん
まんちゃん
やっと福島三羽ガラスの歌が実現したね!
ぷくちゃん
ぷくちゃん
藤堂先生は、三人に影響を与え続けていたんだね・・・

最後に・・・

古関裕而さんの作曲した「露営の歌」は大ヒットし、裕而さんの作曲家としての名前はさらに広く知られることになります。その後も裕而さんはたくさんの戦後歌謡の作曲を手掛け、戦時歌謡の第一人者としてゆるぎない地位を築いていきます。
ところが、やがて日本は敗戦。
残ったのは、裕而さんが作曲した曲を聴き、歌いながら戦地へと向かったたくさんの若者たちが戦地で命を落とし、再び日本の土を踏むことはなかったという事実でした。
「エール」でも、このことに苦悩する裕一の姿がていねいに描かれるようです。
しばらくはつらい描写が続くかもしれませんが、しっかり見届けたいですね。
そして、裕一が再び立ち上がる日を待ちたいと思います。期待しましょう!