エール

エール実在モデルネタバレ│長崎の鐘の歌詞やエピソードまとめ

NHK連続テレビ小説第102作目「エール」。
戦争の時代を迎え、裕一もいよいよ戦地に赴くことになりました。
「エール」のあとの「あさイチ」の朝ドラ受けでも、博多華丸・大吉コンビや近江アナウンサーが言葉に詰まったりするなど、重苦しい描写が続いています。
いずれ日本が敗戦することを視聴者は知っているのですが、裕一はどうなるのか、気になりますね。
そこで今回、私がエールで注目したのが、戦後に裕一が作曲する「長崎の鐘」です。

まんちゃん
まんちゃん
裕一がだんだん壊れていく・・・
ぷくちゃん
ぷくちゃん
窪田正孝さんの演技力もあって、見ていてつらいよね・・・

今回は、「長崎の鐘」について、実在モデルや「エール」でどう描かれるのかについて調べてみましたのでご紹介します!

「長崎の鐘」ってどんな曲?実在モデルも紹介!

エールで描かれる「長崎の鐘」には実在モデルがあります。
1949(昭和24)年にコロムビアレコードから発売された「長崎の鐘」がその実在モデルです。

随筆「長崎の鐘」と永井隆さん

曲のモチーフとなっているのは、医学博士の永井隆さんが書いた随筆「長崎の鐘」です。
長崎に原爆が投下されたとき、永井さんは爆心地から700mという近くにあった長崎医科大学(現:長崎大学医学部)の助教授をしていて、そこで被爆しました。

永井さんは、自身も頭部に右側頭動脈切断という大けがを負いながら、被爆者たちの救護活動に当たりました。
妻をこの原爆で亡くしたうえ、永井さん自身もけがと疲労から一時は危篤にまでなりますが、同僚の医師や看護師たちの懸命な看護で命を取り留めます。

そして、1946(昭和21)年8月、このときの様子を記録した随筆「長崎の鐘」を書き上げます。ところが、GHQの検閲のため、すぐに出版することができませんでした。
1949(昭和24)年にようやく出版の許可が下りた「長崎の鐘」はベストセラーになります。

「長崎の鐘」の曲ができるまで

この随筆にヒントを得て、サトウハチローさんが作詞をし、古関裕而さんに作曲を依頼します。サトウさんと古関さんは、「長崎の鐘」の前にも、1947(昭和22)年の曲「夢淡き東京」でコンビを組んでいました。

作曲を依頼された古関さんは、長崎の人たちのみでなく、戦争で悲しみの底にいるすべての人たちを励ます曲にしたいと願い、曲の途中の「なぐさめ はげまし」の部分からは力強い長調へと転調して作曲しています。

「長崎の鐘」を歌ったのは藤山一郎さん。「夢淡き東京」でも歌唱を担当していました。
藤山さんも、南方慰問中に終戦となり、捕虜になって収容所に送られるという過酷な体験をしていました。

藤山さんは、レコーディング当日、体調を崩して高熱を出していました。体調が戻ったら再レコーディングをするという約束でレコーディングに臨みましたが、この絶唱が感動的なものとなり、再レコーディングすることなく発売されました。
結果、「長崎の鐘」は大ヒット。紅白歌合戦でも何度も歌われることになりました。
また、1950(昭和25)年には松竹で映画化もされています。

レコードの発売後も、古関さんと永井さんの手紙での交流は続きました。
永井さんの死後、熊本を訪れた古関さん夫妻は長崎に立ち寄り、永井さんの息子さんや娘さんと対面しています。

「長崎の鐘」は、原爆の後に浦上天主堂の跡から掘り出された鐘のことです。
永井さんは、原爆のために瓦礫となった浦上天主堂の建物の跡から、2つの鐘を見つけます。小さいほうは割れていましたが、大きいほうの鐘は壊れることなく瓦礫の中から出てきました。
永井さんは、原爆によって悲しみに沈んでいる人たちを元気づけるためにこの鐘を鳴らそうとし、壊れていた浦上天主堂の場所に丸太を組み始めました。そして終戦から4月後、クリスマスの日に鐘を鳴らすことができました。
この鐘は、現在も浦上天主堂でその音色を響かせています。

長崎の鐘

1949(昭和24)年
歌手:藤山一郎
作詞:サトウハチロー
作曲:古関裕而

こよなく晴れた 青空を
悲しと思う せつなさよ
うねりの波の 人の世に
はかなく生きる 野の花よ
なぐさめ はげまし 長崎の
ああ 長崎の鐘が鳴る

召されて妻は 天国へ
別れてひとり 旅立ちぬ
かたみに残る ロザリオの
鎖に白き わが涙
なぐさめ はげまし 長崎の
ああ 長崎の鐘が鳴る

こころの罪を うちあけて
更けゆく夜の 月すみぬ
貧しき家の 柱にも
気高く白き マリア様
なぐさめ はげまし 長崎の
ああ 長崎の鐘が鳴る

引用サイト:Uta-Net
https://www.uta-net.com/song/13839/

第19週「鐘よ響け」あらすじ

終戦から三か月たっても、裕一は曲を作ることができずにいました。
そんなある日、劇作家の池田二郎が裕一を訪ねてきます。池田が書き、NHKで放送されるラジオドラマの音楽を担当してほしいというお願いのためでした。
断ろうとする裕一に、華が言います。
「弘哉くん、今のお父さんの姿を見たらきっと悲しむよ。お父さんの曲聞きたいって思ってるよ。」
それでも、戦場の記憶から逃れられない裕一は、曲を作ることができません。

五郎や梅、復員した智彦たちが新しい生き方を探していく中、一年半が過ぎても裕一は曲を作ることができないままでいます。
そのころNHKでは、池田の書いたラジオドラマの放送がいよいよ始まることになっていました。
歴史に残る作品にするためには裕一の曲が必要だと言って、池田は再び裕一に曲の依頼にやって来ます。
ラジオドラマ「鐘が鳴る丘」は、戦争から立ち直る人たちを描いた作品でした。依頼を断る裕一に、池田は人の心を勇気づける主題歌は裕一にしか書けないと言って、自分が書いた歌詞を裕一に渡していきます。

歌詞を読んだ裕一に、一瞬メロディーが浮かんできます。苦しいけれどやってみる、と裕一は音に告げ、曲を書き上げます。
1947(昭和22)年7月に始まったラジオドラマ「鐘の鳴る丘」は、人々の心を勇気づけ、大ヒットとなりました。

その後、裕一は池田に勧められて映画の主題歌を作曲することになります。
原作になったのは、医師の永田武が書いた「長崎の鐘」。戦争末期に落とされた原爆の様子を、克明に描いていました。
曲作りのために、裕一は長崎にいる永田に会いに行きます。

そんな裕一に、永田は言います。原爆が落とされた広島と長崎を見て、神はいるのかと問うた若者に、永田は「どん底まで落ちろ」と言った。その意味が分かるか?・・・と。
その答えが曲作りのきっかけになると言われた裕一は、何日も考え続けます。

考え続ける裕一を見かねて、永田は妹のユリカに裕一をある場所に連れて行くように頼みます。永田が、原爆が落とされてすぐに被爆者の治療に奮闘していたその場所で、裕一は、「どん底に大地あり」と書かれた紙を見つけます。

そのとき、裕一の耳に鐘の音が聞こえます。
原爆が落とされた後、瓦礫の中から掘り起された鐘。その鐘の音が、原爆でうちのめされた人たちの心に勇気を与えてくれたのだとユリカは言いました。裕一は、ようやく永田に言われた言葉の意味に気がつきます。

裕一は永田に答えます。
「希望・・・ですか?」
永田はうなずき、裕一に言います。なぜ、どうしてと考えているうちは希望を持つことはできない。どん底まで落ちて、大地を踏みしめ、いっしょに頑張る仲間を見つけてやっと本当の希望を見つけることができるのだ、と。
「戦争中、あなたは人々を応援しとった。戦争が終わった今、あなたのやるべきことは何ですか?」
そう問いかける永田に、裕一は答えます。
「同じです・・・応援する歌を作り続ける!」

帰りの汽車の中で、裕一は一気に曲を書き上げます。
この曲を歌うのは、山藤太郎。山藤は、戦争中に南方の慰問先でイギリス軍の捕虜になっていて、戦争のつらさを体験していました。
戦争を体験した人にこの曲を歌ってほしいという裕一の強い希望で選ばれた山藤は、体調を崩して高熱がある中、「長崎の鐘」を絶唱します。
「長崎の鐘」は大ヒット曲になり、戦争でうちひしがれていた人たちにたくさんの勇気を与えました。

まんちゃん
まんちゃん
裕一が立ち直ってよかった・・・
ぷくちゃん
ぷくちゃん
いろいろな人の力が裕一を立ち直らせたんだね・・・

最後に・・・

「エール」で描かれる「長崎の鐘」。実在モデルの「長崎の鐘」にも、ドラマチックな背景がありました。
ドラマでは、恩師の死や、戦争に加担してしまったという心の傷から裕一が立ち直っていく中で、「長崎の鐘」が大きなきっかけになっていくようです。
実際の戦後の日本でも、「長崎の鐘」は傷ついた人たちの応援歌になっていたようですね。
そんな背景を考えながら、裕一にもエールを送りたいと思います♪